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資料館②「極真への道」真を極める編

 私も「天命を知る50歳」を過ぎ、極真空手歴も32年となりました。「千日を以って初心とし、万日を以って極とす」の万日を超えましたが、未だに極めるとは程遠い状態であると痛感しております。
 そもそも、空手のみならず、人生を極めるということ、即ち「真を極める」とはどういうことかと、日々暗中模索し、稽古の合間を縫って、あらゆる書物を読み漁りました。
 もともと無宗教な私ですが、空手との繋がりで、「精進」とはどういうことか、「「無」とはどういうことかと考えているうちに、「東洋思想」「仏教」とか「禅」というものに強く興味が湧いてきました。
 下記の文は、自分なりに纏めたものですが、道場生のお役にたてるかと掲載することにしました。 
 正直なところ、私自身も完璧に理解したわけでは決してありません。理解が非常に難解で、頭が混迷しそうですが、でもじっくり時間をかけて咀嚼していくと、「人生の糧」になると確信しています。
悟りへの道「四諦・八正道」
 仏は、個人的な悟りを得たいと求める人のためには、四諦の法門を説きました。
 生・老・病・死をはじめとするさまざまな人生苦から救い、現象へのとらわれから解脱した境地を極めさせました。
 人生のいろいろな出来事を縁として、自ら悟りを開こうと努めるものには、十二因縁の法門を説きました。
 もっと大きな志を持ち、人を救い世を救うことにより仏の境涯に達しようとする者には、六波羅蜜の法門を説きました。
 あらゆる物事を総合的に明らかに見通す大きな智恵を得、悟りに至る手段を明らかにされました。
四諦(したい)
苦諦(くたい)……世界と人生は苦であるという真理。
集諦 (じったい)……煩悩・執着が集まって苦の原因になるという真理。
滅諦(めったい)……煩悩・執着を断ち切ることができれば苦は滅するという真理。
八正道(はっしょうどう)
  1. 正見……正しい物事の見方
  2. 正思……正しい思想・考え
  3. 正語……正しい言葉
  4. 正業 (しょうごう) ……正しい行為
  5. 正命……正しい生活
  6. 正精進 (しょうしょうじん) ……正しい努力
  7. 正念……邪念を捨てた正しい精神・意志
  8. 正定……正しい瞑想・三昧の境地
四諦(したい)
 四諦の教えは、初転法輪から入滅の直前まで、釈尊が一貫して説かれた人生の真理。
四苦八苦(しくはっく)を滅する方法を説いたものです。
  1. 苦諦(くたい)
    人間の歴史が始まって以来、暑さ寒さ・天災地変・飢饉・疫病・貧困・不仲・不安・老い・死等に対する苦しみがあり、人生は苦「生(しょう)・老・病・死・愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)」であることを諦(さと)る。
  1. 集諦(しったい)
     集というのは「集起(しゅうき)」の略で「原因」という意味です。
    人生苦にも必ず原因があり、その原因を探求し、反省しそれをはっきり諦(さと)ること。
     法華経・譬諭品第三に「諸苦(しょく)の所因(しょいん)は貪欲(とんよく)これ本なり」と説かれ、渇愛(かつあい)といって喉の渇いた者が激しく水を求めるように、凡夫が諸々の欲望の満足を求めてやまない心の状態、無制限にものごとを貪り求めること。
     
     本能そのものは善悪以前の自然のものであると釈尊は説かれているのですが、欲望を必要以上に増大させ、人の迷惑などおかまいなく貪りを増大させる思いや行為が、不幸を呼び起こすのだと教えられています。
     この原因を悟る方法として十二因縁の法門が説かれている。
  1. 滅諦(めったい)
     前記の集諦によって、苦の原因は人間の心の持ち方にあるのだということが解りました。この事から当然「心の持ち方を変えることによって、あらゆる苦悩は必ず消滅する。」ということになる教えです。
     渇愛を余すことなく捨て去り、解脱し執着を断ち切ることができるのか、ただ捨て去ろう、解脱しよう、執着を断ち切ろうとすると、かえってそのものへの心の引っ掛かりから苦しみを増大させてしまうことも充分ありうる事です。
     釈尊は次に述べる「道諦」の真理をお説きになりました。
  1. 道諦(どうたい)
     釈尊は苦を滅する道について、本当に苦を滅する道は苦から逃れようと努力することではなく、正しく物事を見る「正見(しょうけん)」・正しく考え「正思(しょうし)」・正しく語り「正語(しょうご)」・正しく行為し「正行(しょうぎょう)」・正しく生活し「正命(しょうみょう)」・正しく努力し「正精進(しょうしょうじん)」・正しく念じ「正念(しょうねん)」・正しく心を決定させる「正定(しょうじょう)」の八つの道「八正道(はっしょうどう)」を説かれました。
 これらの四諦の法門は、非常に重要な教えであり、「法華経・譬諭品第三」に次のように説かれております。
 「もし人 小智(しょうち)にして深く愛欲に著(ぢゃく)せる これらを為(もっ)ての故(ゆえ)に苦諦(くたい)を説きたもう 衆生心に喜んで未曾有(みぞう)なることを得 仏の説きたもう苦諦は真実にして異なることなし もし衆生あって苦の本(もと)を知らず 深く苦の因(いん)に著(ぢゃく)して 暫(しばら)くも捨(す)つること能(あた)わざる これらを為ての故に 方便(ほうべん)して道を説きたもう 苦の所因(しょいん)は 貪欲(とんよく)これ本(もと)なり もし貪欲滅(めっ)すれば 依止(えし)する所なし 諸苦(しょく)を滅尽(めつじん)するを 第三の諦と名づく 滅諦(めったい)の為の故に 道を修行す」とあります。
 仏教修行を志される方々は、よくこの意味をよく理解していかなければならないと思っています。
四苦八苦
 「すべては苦である(苦諦の法門)と観なさい」
 釈尊は、人間というものは、「必ず移り変わるもの」を「永久に不変のもの」と錯覚し、無理な執着をつくりだすのだと説いています。
 「人生は苦である。」と断定したことは、決して悲観的・厭世的(えんせいてき)なものの見方を教えたわけではありません。
 「苦」そのものを直視し、心の表面でごまかすことなく一時の喜びや、楽しみは、いつかは消え失せ、その影には必ず「苦しみ」がつきまとうという事を断ぜられた真意はここにあります。
 現代生活に即して云えば、酒や遊びなどで一時逃れをせず、しっかりと「現実」を見すえて「苦」を正面から受け止め、その原因を見つめる態度が大事であるという事です。
 このような時「諸行無常」の真理を悟り、今の苦しみは永遠のものでもないし、今の楽しみや喜びも永遠ではなく一時的なもので、これらの現象にとらわれない生活習慣をつけることが修行にほかなりません。
  1. 生(しょう)
    生きるということは苦である。
  2. 老(ろう)
    老いていくことは苦である。
  3. 病(びょう)
    病にかかることは苦である。
  4. 死(し)
    死ぬということは苦である。
  5. 愛別離苦(あいべつりく)
    愛するものと別れるのは苦である。
  6. 怨憎会苦(おんぞうえく)
    怨み憎む者と会うのは苦である。
  7. 求不得苦(ぐふとっく)
    求めても得られないのは苦である。
  8. 五蘊盛苦(ごうんじょうく)
    五蘊とは色・受・想・行・識のこだわりの苦しみ。簡単に云うと、人間の五官(眼・耳・鼻・舌・身・)で感じるものや心で感じる人間の肉体や精神活動すべてが物事にこだわりをつくる苦しみ。
 釈尊は、このように「苦」の分類を八種類に分類されました。
 生・老・病・死を「四苦」といい、次の「四苦」愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を合わせて「八苦」と呼びます。
八正道(はっしょうどう)
 釈尊は、「苦」を滅する方法として八つの正しい道を解き明かしました。
 これが、正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定の方法です。
 これらすべての方法に「正」の字がついていますが、「正しい」とは「真理に合った」・「調和のとれた」考えや見方、行動をさします。
 小我「自分本意」にとらわれて、自分自身を過大評価し、不平・不足・不満などの苦の種をつくらない大きな立場で物事を判断できる人間となる事を示す道として解き明かしたものです。
 また、ものの見方には、現象に現れた差別の見方や前記した大きな立場からの「平等だけの見方」のどちらに偏っても正しい見方とはいえないのです。
 ここでなぜ「平等」の見方だけで正しくないのかという疑問が湧くかもしれませんが、物の本質として現象に千差万別の差別の実相を現すには、それなりの原因や条件があり理由があり無視する事はできないのです。
 このように差別の見方にも偏(かたよ)らず、平等の見方にも偏らない、両者を総合したとらえ方が本当の「正しい」見方やとらえ方となります。
 これを仏教では「中道」といいますが、これは一方に片寄らない、ちょうど真ん中という意味ではなく、その時々の真理の条件・立場に合った最善の方法の見方や考え方という事です。
 この考え方や見方は法華経の「妙」を現すものです。
  1. 正見
     自己中心的な見方や、偏見をせず前記の如く中道の見方をすること。
  2. 正思
     自己本位に偏らず真理に照らし物事を考える事。
     例えば貧欲(自分だけの為に貪る心)・瞋恚(自分の意に添わないと怒る心)・愚痴(不平・不満などの邪心で小我を通すよこしまな心)という「意の三悪」を捨て去り物事を考えること。
  3. 正語
     恒に真理に合った言葉使いをする事。
     社会生活の上で慎まなければならない事で、妄語(嘘)・両舌(都合や立場で使う二枚舌)・悪口(破壊的な悪口)・綺語(口から出任せのいいかげんな言葉)という「口の四悪」を行わないということ。
  4. 正行
     本能に任せるままの生活ではなく、仏の戒めにかなった正しい行いをすること。
     仏が戒めたのは、殺生(意味なく、或は楽しみの為に生き物の生命を絶つ事)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(道ならぬ色情関係)という「身の三悪」です。
  5. 正命
     衣食住その他の生活財を正しく求める事。人の迷惑になる仕事や、世の中の為にならない職業によって生計を立ててはいけないこと。
  6. 正精進
     自分に与えられた使命や目指す目的に対して、正しく励み、怠りや脇道にそれたりしない事で、とらわれ過ぎたり偏った精進はかえって逆効果になる場合があります。
  7. 正念
     仏と同じような正しい(真理に合った)心を持ち、小我(自己本位)による分別をせず、ものごとの真実の実相を見極め、心を恒に真理の方向へ向けること。
  8. 正定
     心の状態が真理に照らし正しい状態に定まる事。腹決めされた決心が外的要因や変化に迷わされないということ。
 これらの「四諦」・「八正道」の法門は、釈尊が人生苦というものに対する考え方や、その「苦」に対処する実践方法を解き明かされた大切な法門です。深く心に刻んでいただきたいと思います。
悟りへの道「十二因縁」
 お釈迦様が、初めて悟りを開かれた『初転法輪(しょてんほうりん)』で、私たちの生活する娑婆世界は、
  1. 諸行無常(しょぎょうむじょう):この世の中で常であるものはなにもなく絶えず変化している
  2. 一切皆苦(いっさいかいく):一切は皆苦であると知ること
  3. 諸法無我(しょほうむが):本来、我(われ)となる主体はない
の三法印(さんぽういん)をお説きになりました。
 また、この三法印に、4.『涅槃寂静(ねはんじゃくじょう):一切のとらわれやこだわりを離れた姿』を加えて四法印(しほういん)と呼び、これら三法印・四法印は仏教の根幹をなすものとされています。
 仏様は、私たちに、実相(じっそう)をありのままに受け入れる事が苦を滅する第一歩であると説かれています。
 また、私たちの心の状態に応じた、悟りへ導く手だてとして、第四回目にお話をした『四諦(したい)・八正道(はっしょうどう)』と『十二因縁(じゅうにいんねん)』、『六波羅蜜(ろくはらみつ)』の法を説かれました。
 『十二因縁(じゅうにいんねん)』は、釈尊(しゃくそん)が、人間の苦しみや悩みがいかに成立するかを考察(こうさつ)し、その原因を十二の項目によって追求しました。
 一切の現象は私たちの心に原因があり、現在、生かされている業(行為)が魂にすり込まれ、前世などの過去世を含めた時代の業にも影響しあって、現在のそれぞれの幸・不幸が決まるとされています。
 諸法実相(しょほうじっそう)すべての存在・ありのままの姿をもっと深く理解させるために、縁起の角度から説かれた教えが『十二因縁(じゅうにいんねん)』です。
 この教えは、人間の肉体生成を十二種の法則に分類し、心の変化にも十二に分かれた因縁の法則があるという教えです。
 前者を外縁起(がいえんぎ)、後者を内縁起(ないえんぎ)と言いますが、その内容は、私達人間の肉体がどのような過程(かてい)を経(へ)て生まれ、成長し、老死にいたるかということを、過去、現在、未来の三世にわたって、千変万化(せんぺんばんか)する人間の心のありさまを示されたものです。
 まず、最初に十二因縁(じゅうにいんねん)の働きを簡単に示すと下記のようになります。
    1.無明(むみょう)⇔2.(ぎょう)⇔3.(しき)⇔4.名色(みょうしき)⇔5.六処(ろくしょ)⇔6.(そく)⇔7.(じゅ)⇔8.(あい)⇔9.(しゅ)⇔10.(う)⇔11.(しょう)⇔12.老死(ろうし)
     上記は、これあるが故にこれあり、これ生ずるが故にこれ生ず(()といい、1~12へと順番に見ていく様)、また、これなきが故にこれなく、これ滅するが故にこれ滅す(逆観ぎゃっかん)といい、逆に12~1へと見ていく様)になります。
     法華経『化城諭品第七』の中で、
    及広説。十二因縁法。無明縁行。行縁識。識縁名色。名色縁六入。六入縁触。触縁受。受縁愛。愛縁取。取縁有。有縁生。生縁老死憂悲苦悩。 と説かれ、意味としては、
    「及び広く十二因縁の法を説きたもう。無明(むみょう)は行(ぎょう)に縁たり、行(ぎょう)は識(しき)に縁たり、識(しき)は名色(みょうしき)に縁たり、名色(みょうしき)は六入(ろくにゅう)に縁たり、六入(ろくにゅう)は触(そく)に縁たり、触(そく)は受(じゅ)に縁たり、受(じゅ)は愛(あい)に縁たり、愛(あい)は取(しゅ)に縁たり、取(しゅ)は有(う)に縁たり、有(う)は生(しょう)に縁たり、生(しょう)は老死(ろうし)・憂悲(うひ)・苦悩(くのう)に縁たり。」 となります。
     ここで云う『縁たり』というのは、○○の縁によって生じたもの、言い替えると○○を条件として生じたものという意味です。
     例えば、『無明(むみょう)は行(ぎょう)に縁たり』といえば、『行(ぎょう)』というものは『無明(むみょう)』という縁を介して生じた・・・ということです。
     ものごとが生ずるには、かならず原因(因)と条件(縁)がなければならないということです。
     また、同じく経文に、
    無明滅則行減。行減則織減。識減則名色減。名色減則六入滅。六入減則触減。触減則受減。受減則愛減。愛減則取減。取減則有減。有滅則生滅。生滅則老死憂悲苦悩減。 とあり、意味は、
    「無明(むみょう)滅すれば則ち行(ぎょう)も減す、行(ぎょう)滅すれば則ち識(しき)も減す、識(しき)滅すれば則ち名色(みょうしき)も減す、名色(みょうしき)滅すれば則ち六入(ろくにゅう)も滅す、六入(ろくにゅう)滅すれば則ち触(そく)も減す、触(そく)滅すれば則ち受(じゅ)も減す、受(じゅ)滅すれば則ち愛(あい)も減す、愛(あい)減すれば則ち取(しゅ)も減す、取(しゅ)滅すれば則ち有(う)も滅す、有(う)減すれば則ち生(しょう)も減す、生(しょう)滅すれば則ち老死(ろうし)・憂悲(うひ)・苦悩(くのう)も減する。 と説き、苦悩(くのう)の根本にある無明(むみょう)を滅することが、一切の束縛(そくばく)から離れる根本であると説いています。
     この十二因縁(じゅうにいんねん)は、四諦・八正道(したい・はっしょうどう)・六波羅蜜(ろくはらみつ)などとともに仏教教義の根本でありますが、四諦・八正道(したい・はっしょうどう)を声聞界(しょうもんかい)、六波羅蜜(ろくはらみつ)を菩薩界(ぼさつかい)の衆生を対象に説法され、この十二因縁(じゅうにいんねん)は縁覚界(えんがくかい)の衆生を対象に説いたといわれています。
    外縁起(がいえんぎ)
     人間を物質的面からとらえた考え方で、肉体はどのようにつくられてきたかを十二の段階から考えることです。
     十二因縁の最初は
     
  1. 無明(むみょう)』です。無明というのは、「明るくない」とか「無知(むち)」ということです。
     私達の魂(たましい)は、両親の夫婦生活という
  2.  
  3. (ぎょう)=行為』によって母親の胎内(たいない)に宿り、
  4.  
  5. (しき)』が生まれます。
     識(しき)というのは『生物の特性を備えたもの』と捉え、不完全ながらも人間らしいものができてきます。
     不完全な識(しき)がだんだんかたちを整えてくると、
  6.  
  7. 名色(みょうしき)』になります。
     名(みょう)とは無形のもので、精神や心の状態をあらわし、色(しき)はその逆の形あるもの、つまり肉体を指します。したがって名色(みょうしき)というのは、魂(たましい)の入った人間の心身ということです。
     名色(みょうしき)が発達すると六入(ろくにゅう)、ここでは
  8.  
  9. 六処(ろくしょ)』と呼び、眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜっ)、身(しん)、意(に)、すなわち六根(ろっこん)が調うということです。私達は、このような段階の状態で、この世に生まれ出てくると云われています。
     五感(ごかん)と心が発達してくると、視覚(しかく)、聴覚(ちょうかく)、臭覚(しゅうかく)、味覚(みかく)、触覚(しょっかく)などをはっきり感じられるようになります。
     このように、名色(みょうしき)と六処(ろくしょ)が互いに影響(えいきょう)しあって感覚器官が発達した状態を、
  10.  
  11. (そく)』といいます。
     触(そく)の感覚器官がもっと発達してくると、感受性が強くなってきて、好き嫌いの感情がでてきます。
  12.  この状態を
  13. (じゅ)』と言うのです。人間の年ごろで言えば、六、七歳ごろを指しますが、さらに成長すると、
  14.  
  15. (あい)』が生じます。この愛にはいろいろな意味がありますが、この外縁起(がいえんぎ)では異性に対する愛情と考えてください。
     異性への愛情が芽生えてきますと、自分のものにしたいという所有欲(しょゆうよく)、独占欲(どくせんよく)がでてきます。
  16.  それが
  17. (しゅ)』であります。
     また、逆に自分の嫌いなものから、離れようとしたり、嫌ったりします。このような区別する感情が出てくることを、
  18.  
  19. (う)』といいます。
     ここまでくると、人生のほんとうの苦しみというものがいろいろな形で襲いかかってきます。
     このように、さまざまな苦楽(くらく)の意識を業(ごう)=(行為)として魂に記憶し、このような意識で人生を展開することを、
  20.  
  21. (しょう)』といいます。この『生(しょう)』は本人だけでなく、子々孫々の『生(しょう)』にも影響を与えていると考えることもできます。
     仏法では、『無明(むみょう)』をなくさない限り、親や先祖の『無明(むみょう)』が、子や孫へと受けつがれ、いつまでも、束縛(そくばく)やとらわれから逃(のが)れることがなく、苦楽(くらく)の意識を継続(けいぞく)してしまうのです。
     そして、それは一生続いて、最後に老いて死を迎える
  22.  
  23. 老死(ろうし)』に至(いた)るわけです。
     以上が、私達人間の肉体を中心とした外縁起(がいえんぎ)による十二因縁(じゅうにいんねん)です。
内縁起(ないえんぎ)
 内縁起(ないえんぎ)は、心の働きを中心に、十二の項目について検証(けんしょう)します。
 最初に1.『無明(むみょう)』ですが、これは正しい世界観や人生観を知らない人です。
 また、知っていても無視した生き方をすることです。
 無明(無知)のために、真理〈宇宙意識を含めた大自然の原理原則〉に合わない行動をしてきた、これが2.『(ぎょう)』です。
 ただ、この場合の『行』は、自分自身だけの行いだけにとどまらず、解釈においては、「人間の行為が永い間、魂(たましい)にすり込んだ、過去の行い」を含んでいます。
 よく世間で「親の因果(いんが)が子に報い」とか「因果(いんが)は三代めぐる」などと言いますが、これは潜在的に形成されているものを含んで言うのでしょう。
 次の3.『(しき)』は、
外縁起(がいえんぎ)で述べた眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜっ)・身(しん)・意(に)の六処(ろくしょ)に影響(えいきょう)を及ぼす働きをもつことから、物事を知り分ける識別作用の働きをいいます。
 私達の識の中には、前世の業=行為が、輪廻(りんね)した魂(たましい)の潜在意識(せんざいいしき)の中にあると思われます。
 前世に悪業(あくごう)をなした人は、現世の識(しき)も無明(むみょう)の識(しき)と言えます。
 このような人達は、過去世からの無明(むみょう)の識(しき)を背負(せお)ったままのスタートとなり、これに現世(げんせ)の業(ごう)=行為が積み重なります。
 私達人間には、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(に)という六つの器官(きかん)があります。
 そのうち、体の部分である眼・耳・鼻・舌・身の五官を、普通感覚(ふつうかんかく)と呼びます。
 そして、心の部分の「意(い)」を知覚と云います。
 私たちの生活は、この普通感覚と知覚の働きが互いに関連することにより生活ができるわけで、『識(しき)』と、4.『名色(みょうしき)』、5.『六処(ろくしょ)』、6.『(そく)』が、複雑に依存(いぞん)し合い、さまざまな人間の行動をさせているのです。
 このように心が発達するにつれて、
 7.『(じゅ)』が生じます。
 環境や価値観の違いから、ものの受け取り方や感じ方が違ってきます。
 主観(しゅかん)と感受性(かんじゅせい)の相違(そうい)が生まれてきますが、これは過去の経験から生じてくると云われています。
 このように、名色(みょうしき)・六処(ろくしょ)・触(そく)が複雑に関わり合って、好き、嫌(きら)いなどの苦楽(くらく)の感情が生まれてくると、自然に8.『(あい)』が起こります。
 ここでいう愛は、執着心(しゅうちゃくしん)と考えとらわれる心だと解釈してください。
 仏様も、比喩品(ひゆほん)第三の中で、《諸苦(しょく)の所因(しょいん)は貪欲(とんよく)これ本(もと)なり》と仰(おお)せです。《もろもろの苦の原因は、貪欲が本となっている》という意味です。
 貪欲(とんよく)と言うのは、自分の欲望にまかせて執著(しゅうちゃく)する心を指(さ)します。
 このように、好き・嫌(きら)いの苦楽(くらく)に対する考え方が激しいほど、極端に相手に対しての愛(あい)・憎(ぞう)の感情が強くなります。
 執著心の強い人は『愛』を感じて、自分のものにしたいとか、放したくないと考えます。
 この心が9.『(しゅ)』です。
 これは、愛憎(あいぞう)の心から起こる強い取捨選択(しゅしゃせんたく)の心です。
 仏様が、前記と同じく法華経の比喩品(ひゆほん)第三の中で、《深く愛欲(あいよく)に著(じゃく)せる、此れ等を為っての故に苦諦(くたい)を説きたもう》と説かれて、《悪行悪徳(あくぎょうあくとく)の原因を除かなければ、人間は幸せになれない》とハッキリ仰せです。
 『取(しゅ)』があると、人間はそれぞれの考えや主張がでてきます。
 それが10.『(う)』です。
 有とは、自己中心の心がもたらす差別・区別の心です。
 好きなものには親しんで、気に入らないものや嫌いなものは排除(はいじょ)するのが、人間世界の姿です。
 こうした差別心は、人間に対立や争いを起こします。
 争いや対立は苦しみを伴います。
 このように苦しむ人生を11.『(しょう)』と云います。
 そして目先のできごとで喜んだり、悲しんだり、苦しんだりして生きているうちに、
 12.『老死(ろうし)』を迎えるということになります。
 以上が心の動きを中心とした十二因縁(じゅうにいんねん)の説明です。
 十二因縁の教えを、私たちは自分の人生に生かし、自分自身のあり方を考えることも大事であると思います。
無明
(むみょう)
 『無明』とは明るく無いことで、智慧のないことを意味します。
 つまり、すべてのものごとのあり方や、人生についての意義を知らず、また知ろうともしない状態をいうのです。
【無知のこと、根本煩悩のこと】

(ぎょう)
 人間の意志をもって行う行為ではなく、人間が人間という形をもたなかったころ、すなわち、十億年も前、この宇宙に生物というものが発生した当時から、その生物が無意識のうちに行動してきたことをさしているのです。
【潜在的形成力】

(しき)
 そうした無意識の行動が、長い間無数につみかさなることによって、次第に、物事を知り分ける意識ができあがってきます。
 簡単に云うと、習慣によって、ぼんやりとした、きわめてハッキリしないものごとを知り分ける働きの大元にすぎません。
 これを『識』というのです。
【認識・判断と考える】
名色
(みょうしき)
 識が、少しずつ発達して『名色』となります。
 『名』は無形のものをいい、ここでは心や精神世界を表します。
 『色』は有形のもので、ここでは肉体をいいます。
 心身の作用が除々に形を整え、自分の存在を意識するようになる状態を、『名色』といいます。
 ここでいう意識は、自分勝手に自分の存在を意識するわけです。
 わかりやすくいえば、身体というものはもともと『空(くう)』であるのにもかかわらず、自分の存在を固定的・永続的に実在するかのように意識する意識をいいます。
【名称と形態をいう】
六処
(ろくしょ)
 名色が発達すると、心身の六つのはたらきがハッキリしてきます。
 すなわち、眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・身(触覚)という五感の感覚と、その五官で感じたものの存在を知りわける意(心=知覚)が相互に働き、分別や区別する意識がでてくるのです。
 そういう働きを『六入又は六処』といいます。
【対象と接触する領域】

(そく)
 前記の物事を見分ける能力がそなわってきて、ハッキリと意識的に物を判断できる状態になること。
 例えば、赤ちゃんが成長してきて、お父さん、お母さんなどの識別ができるようになった状態をいいます。
 このような識別は、『名色』と『六処』が互いに融合し関連して起こるものを『触』といいます。【対象との接触】

(じゅ)
 心身が発達し、ものごとを識別できるようになると、自然に、好き・嫌い・憂い・悲しみ・苦しみなどのような、さまざまの感情が起こるようになります。
 これを『受』といいます。心に起こる最初の感情を、『受』というのです。
 
【受容して生じた苦・楽・非苦・非楽をいう】

(あい)
 このような感情が起こるようになると、当然のこととして、ものごとに対して『愛着』が起きてきます。
 これは、好きなものに心がとらわれることです。
 この段階では、まだ無邪気な心の動きの状態をいい、自分が楽しく感じる物に執着を感じている状態を云います。
【渇愛】

(しゅ)
 愛着を感じると、どこまでも追い求めていこうという欲望が生まれます。
 愛着・執着の気持ちが強くなると、得たものは離すまいという気持ちが起こります。
 反対に、嫌なものを遠ざけたい、逃げたいというような、自分本位な心の働きが起きてくる状態を、取というのです。
【執着】

(う)
 取が生じると、人の感情はそれぞれで、物事に対する考え方や判断が違ってくるようになり、それぞれが、自分の立場でものごとを主張をするようになります。
 つまり、『他人と自分を差別や区別』をする意識を持つようになります。
 そうした差別や区別する心の状態を有といいます。
 こうした意識の状態が芽生え始めて、意識に幸・不幸を感じるようになり、他人との不調和が人と人との対立を生み、争いが起こり、苦楽を意識するようになります。
 これらは、差別や区別する心であり、有が引き起こすものとされています。【生存すること、憂・悲・苦・悩をいう】

(しょう)
 このように苦楽の意識は、業(行為)として、魂にすり込まれ、さらに次の世における『生』においても、同じような意識で人生が展開されていきます。
 つまり、根本原因である『無明』をなくさない限り、いつまでもこのような苦楽の輪廻を繰り返すとされています。
 また、この『生』を、本人だけでなく、『因果は三代めぐる』と云われるように、子々孫々の『生』にも影響を与えていると考えることもあるようです。
【生まれること】
老死
(ろうし)
 人間は、この世に生を受ければ、やがて老いて死を迎えなければならない運命です。このことを『老死』と云います。
 人間が死を恐れたり、不安になるのは、肉体が活動していることのみを、この世限りの人生だと錯覚しているからではないでしょうか。
 仏様は、人生において仏法による正しい行為(善業)を積み重ね、次の世では、後生善処といって環境の良い処へと生まれ変わり、よりよい人生を送ることができるとされています。
 最終的には、輪廻さえ解脱して仏の境界に到達できるのだと説かれています。
 生物発生から人間という形になるまでの経過や、人間が苦の人生を送る状態を考えてみると、『無明』を根本原因として、十二因縁のさまざまの段階においてその無智を深めた結果であることがよくわかります。
【老いて死ぬこと】
 余談になりますが、生理学者が臨床研究によって証明するところによりますと、精子と卵子が結合して、完全な赤ちゃんとして生まれるまでに、アメーバーのようなものから、虫のようなもの、魚のようなもの、両棲類(りょうせいるい)のようなものと、人類の進化とおなじような過程を経て成長して、ついに人間の形となるわけです。
 ですから、この十二因縁の法則は、生物発生の経過の考察であると同時に、個人の受精から死に至るまでの実相を明らかにしたものです。
 こういった状況を永遠に繰り返している状況を三世両重(さんぜりょうじゅう)の因果(いんが)といいます。
順観(じゅんかん)・逆観(ぎゃっかん)
 十二因縁の法則を、人間の存在発生から死にいたるまでを、ものごとが縁により生じるものを順に観察したものを『順観』と呼んでいます。
 人間は生まれて死に至るまで、さまざま人生苦を味わうこととなります。
 お釈迦さまはブッダガヤーの菩提樹下において、この人生苦を消滅し、輪廻から解脱する為にはどうすればよいかをお考えになり、無明から老死に至る人間の存在発生から死に至るまでの発想を逆転させ、根本の無明を滅する方法を『逆観』といい、縁起を順と逆に観じて、悟りを開かれたといわれております。
 この順・逆の発想は十二因縁の教えを完成する上でとても重要です。
諸法実相(しょほうじっそう)
 諸法とはすべての存在、実相とは真実のすがたのこと。
 法華経方便品では、諸法が十如是(じゅうにょぜ)(相(そう)・性(しょう)・体(たい)・力(りき)・作(さ)・因(いん)・緑(えん)・果(か)・報(ほう)・本末究竟等(ほんまつくきょうとう))の仕組みで働いているものとします。
 すべての存在を空(くう)の思想に立った考え方でうけとり、にもかかわらず仮のものとして現実をうけとめ、さらにそれらを中道(ちゅうどう)、つまり偏りのない認識でみることです。
 こうした思想は、天台大師(てんだいだいし)智顗(ちぎ)によって提唱(ていしょう)された円融三諦論(えんゆうさんたいろん)としてまとめられたが、さらに日蓮によって一念三千(いちねんさんぜん)即妙法五字(そくみょうほうごじ)の法門(ほうもん)へと高められていきました。
十如是(じゅうにょぜ)
 法華経方便品に、
「唯(ただ)仏と仏とのみすなわち能(よ)く諸法(しょほう)の実相を究尽(くじん)したまえり。所謂(しょい)、諸法(しょほう)の如是相(にょぜそう)・如是性(にょぜしょう)・如是体(にょぜたい)・如是力(にょぜりき)・如是作(にょぜさ)・如是因(にょぜいん)・如是縁(にょぜえん)・如是果(にょぜか)・如是報(にょぜほう)・如是本末究竟等(ほんまつくきょうとう)なり」
と説かれる法華経の特色ある法門の一つを、天台大師智顗(てんだいだいしちぎ)が、十如是(じゅうにょぜ)または略して十如(じゅうにょ)と称しました。
 すべての存在(諸法)のありのままのすがた(実相)には、十種の範疇(はんちゅう)があるということです。
相(そう)外面の形相
性(しょう)内面の本性
体(たい)相や性を統一する主体
力(りき)体が備える潜在的能力
作(さ)力が外界に現れて動作となったもの
因(いん)原因
緑(えん)因を補助する間接原因
果(か)因(いん)と緑(えん)から生じた結果
報(ほう)因果(いんが)によって生じる報果(かほう)
本末究竟等(ほんまつくきょうとう)相(そう)から報(ほう)までの原理は一貫しており、その帰結するところは同一であるということ。
 天台大師智顗(てんだいだいしちぎ)は、この十如是(じゅうにょぜ)を基(もと)として、十界互員(じっかいごぐ)・百界干如(ひゃつかいせんにょ)・一念三千(いちねんさんぜん)の教理を立て、これを究極の説としました。
一念三千(いちねんさんぜん)
 われら凡夫の一念(一瞬の思い)にも三千世間(全宇宙の現象)がそなわっているという意味。
 法華経だけがもつ究極の法門で、煩悩(ぼんのう)のなかにも仏性(仏と等しい性格)があるとすることによって、人々が成仏(じょうぶつ)できる根拠(こんきょ)とされます。
 中国の天台大師智顗(てんだいだいしちぎ)が創唱したもので、法華経方便品の十如是(じゅうにょぜ)(ものごとの十のありさま)と、華厳経(けごんきょう)の十法界(じっぽうかい)(凡夫がさまよう六つの世界と聖なる四つの世界)と、「大智度論(だいちどろん)」の三世間(五陰(ごうん)・衆生(しゅじょう)・国土(こくど))を相乗(そうじょう)することによって三千世間となります。
 この三千には善悪(ぜんあく)すべてが含まれている。智顗(ちぎ)が仏の境界をめざし完成させたのが、一念三千に思念(しねん)をこらす修行(止観行)です。
 日蓮聖人は、この一念三千を法華経の珠であるととらえて発展させました。
 日蓮聖人は、一念三千の意味は法華経本門(ほけきょうほんもん)の如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)によって初めて明らかになると説きます。
 本門(ほんもん)寿量品(じゅりょうほん)において、釈尊は歴史上実在した仏であるだけでなく、久遠(くおん)の生命をもつ仏であり、久遠の過去から救済活動をしていたことが明らかにされました。
 すなわち、仏の加護は永遠に働きつづけており、これによって真の成仏が可能となると示し、これを本門の一念三千(いちねんさんぜん)としました。
 そして、本仏釈尊(ほんぶつしゃくそん)の久遠以来から、衆生救済の菩薩行とその功徳とは、本門の教法である妙法五字(妙法蓮華経)という題目にそなわっているから、われら凡夫は妙法五字を受持(じゅじ)することによって、釈尊(しゃくそん)の因果(いんが)の功徳(くどく)を自然に受得(じゅとく)すると説きます。
 すなわち、本門の一念三千の修行とは南無妙法蓮華経と唱えることであり、唱題によって釈尊の救済の世界につつみこまれ、成仏が実現するとしたのです。
 日蓮聖人は、天台智顗(てんだいちぎ)の、『理の一念三千』の観法(かんぽう)の実践を、信を媒介として妙法五字の受持唱題という信心行にしぼり、これを本門事の一念三千とし、末法の行法としたのです。
【引用資料・参考資料】
  1. 法蔵館出版 『日蓮宗小辞典』 小松 邦明・冠 堅一書
  2. 佼成出版社 『新釈 法華経三部経』 庭野 日敬書
悟りへの道「六波羅蜜」
 釈尊(しゃくそん)が、初転法輪(しょてんほうりん)において、五比丘(ごびく)のために述べられたものとして知られる苦(く)・集(じゅう)・滅(めつ)・道(どう)の四つの聖なる真理からなる四諦八正道や、不幸の原因が心の中の無明(むみょう)にあるとし、世の中の道理に通じていない智慧(ちえ)のない状態から苦が生じてくる十二因縁を勉強いたしました。
 仏道修行を通じてこの我執(がしゅう)が取り除かれたとき、周囲の人々やあらゆる生き物に対して慈悲心が開花します。
 この慈悲の心を完全に体得したとき、自分と他人の対立・区別が無くなり、他人の幸福は自分の幸福、逆に他人の不幸は自分の不幸という、自他一致の心理が生まれます。
 また、自分が幸福になれば、その福徳を少しでも他の人々に役立ててもらおう、という心理が作用します。
 わかりやすく言うと、それは抜苦与楽(ばっくよらく)の精神に尽きます。
 苦をなくして楽を与えるという意味です。
 このような心を持ち、実際に行動に移す者を、仏教では菩薩と呼んでいます。
 大乗の菩薩が涅槃(ねはん)の境涯(きょうがい)に到るための修行方法を波羅蜜(はらみつ)といいます。
 簡単ないい方をしますと、生きて成仏するために修行しなければならない修行のことです。
布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧の六種の修行があり、これらを六波羅蜜(ろくはらみつ)といいます。
 お釈迦様は、この六種の修行を通して、悟りに到る道を明かされました。
 悟るとは、無我や空(くう)、つまり、無差別智(むさべつち)の立場に立ち、個人レベルの幸・不幸の視野を超越して、宇宙的な観念の世界観を持つこととなります。
 これを真理に目覚めるといいます。
 仏教では、私たちが住むこの世のことを娑婆(しゃば)と呼び、悟りに到った者は、その目覚めを自分だけのものとせず、他の人々に伝えてこそ、『真の自覚』を得るのです。
 菩薩というものは、声聞界(しょうもんかい)や縁覚界(えんがくかい)の境地を離れて、仏様のお教えを守り、自らを仏様の心に近づけるべく精進を重ね、その結果として迷いを離れ、他を救う働きをいいます。この六波羅蜜の法門はすべて自他を救うことが前提となっています。
 お釈迦様も、五十年間にわたって悟られた真理を、幾多の衆生(しゅじょう)に説き広める実践(法施)を重ねられました。仏心とはそういうものでなくてはならないと思います。
  1. 布施波羅蜜
      布施波羅蜜(ふせはらみつ)は、別名、檀那波羅蜜(だんなはらみつ)ともいい、さまざまな施(ほどこ)し をさせて頂く修行のことです。
     簡単にいうと、貪欲(とんよく)の心を対冶(たいじ)して、人に財を与え、法(真理)を教え、安心を与えることで、完全な恵みを施すことです。
     お布施というと、信者や檀家の人がお坊さんに対して施す金品が一般的になっております。
     これらのお布施によって寺院が守られる事となり、僧侶が教えを広め流布(るふ)することができるのです。
     これらの布施の行為が長い間続けられて、法が絶えることなく伝えられてきているのです。
     よくお寺で『檀家さん』という言葉を耳にしますが、これは、檀那波羅蜜の壇那(だんな)は元々布施の意味ですから、経済的な援助(布施)をする人を世間一般に檀那とか檀那様といいます。
     この檀那の人達の家族を檀家と呼んでいるのです。
     さて、布施行には、財物を施す財施(ざいせ)、恐怖や不安を取り除き安心を与える法施(ほうせ)、法を説き与える修行を実践する無畏施(むいせ)があります。
    1. 財施
       財施と言うのは、文字通り、金銭や物品を他人に施す物質的な布施のことをいいます。
       地震や水害時などの衣類・毛布・食料等々の生活用品や義援金なども、この財施にあたります。
       お布施の心がけを少しお話ししますと、本来、人間は欲深く罪深いものです。お寺へのお布施なども、金額が定まっていないと、いくらですかと尋ねられる方が多くなりました。
       お布施は、自分の出来るだけの気持ちを喜んでさせて頂くというのが趣旨であります。このことから、お布施をすることを喜捨(きしゃ)ともいいます。
       喜捨は喜んで捨てると書きます。この意味は、喜んでさせて頂きますという心がけの大切さを教えています。
       このような気持ちで、仏様の教えを守り伝える僧侶や自分より経済的に苦しんでいる人に布施することが、自分の罪障を消滅することになるといわれています。
       お金の有る人は有るなりに、無い人は無いなりに、自分の能力に応じて布施させて頂くのが基本なのです。このことから、お寺などのお布施は金額を定めないのが本来の姿なのです。  また、托鉢(たくはつ)行の時など、「あの坊主は、お布施したのに御礼も言わない!」と耳にすることがあります。
       これは、何々してやったという人間の醜い姿の現れであります。
       また、一般には、お布施の金額が決まっていないと、少ないとケチと思われはしないか、また、多ければ多いお布施も、法要のお経や説法などがお布施の金額に見合ったものかどうか査定をしたり、見栄の心や欲深い心が顕(あらわ)れたりします。
       仏様の教えを守り、説き広める場であるお寺や僧侶の皆さんは、逆に布施する人に対して、金額の大小で囚われたりする心があってはならないのです。
       布施をする者とされる者が清浄の心となって、互いの罪を消し、功徳(くどく)となり得るのです。
       このことを空無我(無自性・無所得の自覚)でなければならない修行とされ、菩薩道を代表する実践法となっています。
       空無我とは、施す者も、施しを受ける者も、施し物も、全てが執われを捨てたものでなければならないという意味になります。
    2. 法施
       法施は、仏様の理想とする教えを説き、迷い悩む人を救い、悟りの世界へと導くことをいいます。出家者たる僧侶の方は、この法施の第一線に立つのが本来の役目とされています。
       また、仏様の教えを信じる在家の方も、縁ある人に仏様の教えを伝えることがとても大事なことだといわれております。
       簡単にいうと、人に物事の道理を説くということです。一般の方でも、豊かな知識や智慧のある人は、物やお金はなくても、人にものを教えたり、導いてあげたり、拘(こだわ)りや囚われから離れる方法などを教えてあげることができます。
       どんな人でも法施はできるのです。悩んでいる方は、他人の体験話を聞くだけでも随分救われたりするものです。このような行為も立派な法施です。
       実生活の中で、暮らしの知識を教えることも広い意味で法施に当たります。例えば、おいしい漬物の漬け方や編み物の仕方、パソコンの使い方などを手ほどきしてあげたとしても、やはりそれは法施なのです。
       このうちのどれでもいいですから、自分にできる布施を実行して、人の役に立つことが肝心です。
    3. 無畏施
       無畏施というのは、人の悩みや恐れを取り除き安心を与える布施をいいます。
       その気になれば、たとえ、経済的にゆとりのない境遇の人でも、自分の体を使って労力を提供したり、いたわりの言葉をかけたり、優しさのある微笑で人と接したりすることは出来るものです。
     心がけ次第で、困っている人達のために、「布施の心」は持てるはずです。
     仏様は、雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)の中で、財力もなく知恵も無いという人の為に、次に掲げる『無財の七施』をお説きになりました。
    無財の七施
    眼施(がんせ)
    優しい眼差しで人に接する。
    和顔施(わがんせ)
    和やかな明るい顔で人に接する。
    言辞施(ごんじせ)
    優しい言葉をかける。
    身施(しんせ)
    身をもって布施する。
    心施(しんせ)
    心の底から人を思いやる慈悲心を施す。
    牀座施(しょうざせ)
    例えば、先輩やお年寄りに自分の席を譲る行為。
    房舎施(ぼうじゃせ)
    例えば、困っている旅人に一夜の宿を提供したり、休憩の場を提供したりする行為(昔はお遍路さんなどに対して行われていた)。
     以上のように、布施ということが菩薩行の第一条件とされているのは、大変意味深いことと言わなければなりません。
  2. 持戒波羅蜜
     持戒波羅蜜(じかいはらみつ)は、別名、尸羅波羅蜜(しらはらみつ)ともいい、戒律を堅固に守ることをいいます。持戒の意味ですが、これは、仏から与えられた戒(いまし)めによって悪業の心を対冶して、心の迷いを去り、身心を清浄にすることで、戒を守ることを教えたものです。
     これらの教えを守り、身を慎むことを律といいます。総じて戒律といいます。
     代表的な戒に五戒(ごかい)・十戒(じっかい)があります。
    五戒律
    不殺生戒(ふせっしょうかい)
    生き物をみだりに殺してはならない。
    不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
    盗みを犯してはならない。
    不邪淫戒(ふじゃいんかい)
    道ならぬ邪淫を犯してはならない。
    不妄語戒(ふもうごかい)
    嘘をついてはならない。
    不飲酒戒(ふおんじゅかい)
    酒を飲んではならない。
     以上が五戒律といわれるものです。この五戒律に次の五つの戒律が加わったものを十戒律と呼んでいます。
    十戒律(五戒律含む)
    不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい)
    他人の過ちや罪を言いふらしてはならない。
    不自賛毀他戒(ふじさんきたかい)
    自分を誉め、他人をくだしてはならない。
    不慳貪戒(ふけんどんかい)
    物おしみしてはならない。
    不瞋恚戒(ふしんにかい)
    怒ってはならない。
    不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい)
    仏様の教えや仏法伝道の僧をくだしてはならない。
     このように、正しい生活をして自分自身の完成に努めなければ、本当に人を救うことはできないということです。
     ただ、誤解してならないことは、自分はまだ完成していない人間だからとても人を助け導くことはできない、という考えを持たないことです。
     自分だけの生活に囚われてしまえば、返って自己の完成はできないのです。
     人のために尽くすということも持戒の大きな要点なのです。
     人のために尽くすことによってそれだけ自分も向上し、自分が向上することによってそれだけ人にも尽くせるようになる、この二つは無限に循環していくものなのです。
  3. 忍辱波羅蜜
     忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)は、別名、せん提波羅蜜(せんだいはらみつ)ともいいます。
     忍辱、これは、瞋恚(しんに)の心を対冶して、迫害困苦(はくがいこんく)や侮辱等を忍受(にんじゅ)することです。チョットの事でキレ易くなっている現代の人間には、特に必要なことだと思います。
     釈尊はあらゆる徳を備えた方ですので、一つの徳だけをとりたてて申すのもおかしな話ですが、釈尊の最大の徳は実に寛容であったことです。
     お釈迦様のどんな伝記にも、お釈迦様が立腹されて人に対して怒りの感情をあらわにしたとは、何一つ書いてありません。
     悪人の代表とされている堤婆達多(だいばだった)に命をねらわれ、どんなに迫害されても、微塵も立腹されていないのです。
     また、弟子達が教えに背き師のもとを離れても恨むことなく、返ってその増上慢(ぞうじょうまん)がもたらす先々の不幸の予測に、「可哀相に!」と哀れみと慈しむ心を起こしています。
     人間として、釈尊という方の性格は徹底した寛容の人であったようです。
     私達が、何かにつけて腹を立てたり、人を恨んだり、また、その怒りや恨みを相手にぶっつけたりすることはとてもおぞましい事です。
     忍辱というのは寛容ということです。
     それは、人に対してだけでなく、この忍辱の修行を積むことによって、天地のあらゆる事象に対して、腹を立てたり、恨んだりすることがなくなることをいいます。
     私達は、ややもすれば、暑ければ暑いで寒い方が良いと云い、寒ければ寒いで暑い方が良いと云い、太れば痩せたいと云うし、痩せすぎれば太りたいと云う。
     また、忙しすぎれば暇になりたいと云い、暇になればなったで忙しい方が良いと云う。色々、人間はブツクサ愚痴を云い、不平・不満を云う人が多いものです。
     仏の教えを生活に生かして修行を積む人は、心がゆったりとして調和していますから、四季折々の変化にも常に感謝して賛嘆できるようになります。
     周囲の変化に心がとらわれぬようになるのです。
     また、自分に侮辱や損害を与え、人を裏切るような相手に対しても、単に怒りや恨みの心を抱かずに、慈悲心から、そういう不幸から救ってあげようとする気持ちが起きるようになります。
     また、他の人から、「あなたは仏様のようだ」、「あなたが神様のように見える」などとおだてられても有頂天にならず、じっくりと自分を省みて、優越感を持つこともなく、さがる心を持するのも、皆「忍(にん)」の心なのです。
     こういう境地が忍辱行(にんにくぎょう)の極致だと云えます。
     このように、無理なことをしてくる相手に対して、仏の教えを知らない、つまり、仏様の教えは真理ですから、世間の道理を知らない事となり、可哀想な人と考えるまでは、案外、早く到達することができるようです。
     これぐらいの境地までは誰でも進みたいものです。
     この忍辱という精神的習慣が、ある程度、人々の心に浸透できたら、それだけで世の中も平和になると思います。
  4. 精進波羅蜜
     精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)は、別名、毘梨耶波羅蜜(びりやはらみつ)といい、懈怠(けたい)の心を対冶して、身心を精励して、他の五波羅蜜を修行することです。
     この精進ですが、「精」という言葉は「まじりけのない」という意味です。
     例えば、仕事でも修行でも、頭の中や行ないにまじりけがあっては精進とは言えないのです。
     目標に向かって、ただ一筋に進んでいくことこそ精進なのです。
     時には、一生懸命に一念心で事に当たっても、結果が得られない場合や逆の現象が出たり、外部から水をさされたりすることがあります。
     そういうものは、大海の表面に立ったさざなみのようなもので、やがて風がやめば消えてしまいますので、多少の困難は自分を試す幻に過ぎません。
     これは八正道の正精進と同じ事です。
  5. 禅定波羅蜜
     禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)は、別名、禅波羅蜜(ぜんはらみつ)といい、心の動揺・散乱を対冶して、心を集中し安定させ、真理を思惟(しゆ)することです。
     禅定波羅蜜の「禅」とは「静かな心」、「不動の心」という意味です。
     「定」というのは心が落ち着いて動揺しない状態です。
     ただ、一生懸命に精進するばかりではなく、静かな落ち着いた心で世の中のことをジックリと見る、そして考えることが大切なのです。
     そうすると、物事の本当の姿が見えてきます。
     そして、それに対する正しい対処の方法もわかってきます。
     その正しいものの見方、物事の本当の姿を見分ける力が、次に掲げる第六番目の智慧です。この智慧がなければ、結局の処、人を救うことはできません。
  6. 智慧波羅蜜
     智慧波羅蜜(ちえはらみつ)は、別名、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)といい、一切の諸法に通達して、愚痴の心を対冶し、迷いを断ち、真理を悟ること、または諸法の究極的な実相を見極めることをいいます。
     例えば、現代のように世の中が混沌としていますと、困っている人に、前後の考えもなく、相当のお金を恵んでやったとします。
     ところが、その男はバクチ好きだったとしたら、これ幸いに、そのお金で、パチンコ、競馬、競輪等々で、与えられたお金をすぐに使ってしまうこととなってしまいます。
     そのために、救うことができず、人に甘えて社会的努力をしないダメ人間を作ってしまう事となります。
     このように、布施も、本当の智慧をもってしなければ、せっかくの慈悲の心も有効な働きをしないばかりでなく、返って逆の結果になってしまいます。
     前記は極端な例えですが、世の中にはこれと似たようなことが大小無数にあるものです。
     このように、私たちが人のために役立つとか人を救うという立派な行ないをする場合、智慧は絶対に欠くことのできない条件となります。
 私達は、末法(まっぽう)という五濁悪世(ごじょくあくせ)の時代に生を受け、仏様の教えに出会い、新鮮で永遠の理想を持ち続けられることはとても幸せなことです。
 今回勉強された六波羅蜜の法門のように、布施持戒忍辱精進禅定智慧の心で常に人間向上の道を志すことが人間の理想となるのです。
 仏法は、天地の法則に随順(ずいじゅん)して生きることを教え、同時に人間らしい情緒を豊かにする完全無欠の教えです。
 日々の生活にも、夢の実現や希望を叶え、悔いのない人生を歩まんが為に、大いなる意欲を持って、創造力をフルに働かせて、惜しみなく努力をしなければなりません。
 失敗や障害があっても、それは仏様から与えられた試練だと心得ることです。
 それらを乗り越えて、囚われの心や偏りの心を離れて、自他が共に救われてこそ、仏様の説かれる仏国土となり、これからの新しい時代を担う人間に成る事ができると確信しています。
 以上までが、六波羅蜜の説明ですが、苦・集・滅・道の四つの聖なる真理からなる四諦・八正道の法門や流転縁起の十二因縁の教えでは、苦しみの根本を知り、考え方や事象のありのままを認識することが大切です。
 不幸の原因は、自分の心の中にある無明であり、智慧がなく世の中の道理に暗い状態を意味しています。
 人間は、自分に不幸が降りかかると、その原因を自分以外のものに責任転嫁しようと試みます。
 あらゆる宗教の目的の一つは、自分に降りかかる苦からの離脱であると言っても過言ではなでしょう。
 そして、この不幸の原因を見いだし、納得した解答が得られて、はじめて人は安心の境地を得るのです。
 仏道修行を通じ、我執を取り除き、慈悲の心で自分と他人の対立・区別を無くし、自他一致の心持ちで行動する者を、仏教では菩薩と呼んでいるのです。
十界
 人間の一人一人の立場や環境の違い、価値観の違いなどで、人の幸・不幸の価値観も変わりますが、お釈迦様は《今この三界(さんがい)は、みなこれ我が有(う)なり。その中の衆生はことごとく、これ我が子なり。然(しか)も今この処はもろもろの患難(げんなん)多し。ただ、我れ一人(いちにん)のみよく救護(くご)をなす。》と説かれ、この世の一切衆生は吾が子であると仰になりました。
 仏の子としての自覚が出来れば、必ず幸せになる事を保障しています。
 人によっては、自分の果報(結果や報い)が良いと感じる人、また、悪いと感じる人など様々だと思いますが、ここで問題となるのは本人の心によって楽しさや苦しみを感じるという事に気が付かなければなりません。
 仏様は、十界(本来、十界互具・一念三千観を説明しなければなりませんが、ここでは簡単に説明)といって様々の因縁によって、人の心が定まるところの境地を説いています。
 一つの念の中に三千種の心境(一念三千)があるといい、その初めに、十界という人間の心境や境遇をたて、その十界の各世界に、それぞれ同じように十界を具えていると説かれています。
 このことを「十界互具」といいます。
 まず、最初に十界の説明からさせていただきますが、簡単に理解していただくために、十界を図に表すと下記のようになり、次の六道と四聖道に分かれています。
六道
四聖道
一、地獄界
二、餓鬼界
三、畜生界
四、修羅界
五、人界
六、天上界
七、声聞界
八、縁覚界
九、菩薩界
十、佛界
 以上の心境や境遇をいいます。
 この十の段階の心境や境遇というものは、一切の人が、持ち合わせているもので、それぞれ自分の心の中に感じている世界観です。

一、地獄界

 地獄界という世界が、どうして心の中に現われて来るかというと、それは毎日の生活において、心の瞋恚(いかり)の部分を表したものです。
 これは、他人の言う事や働きが、自分の心に合わず不平・不満・不足の念を感じて、何故、自分だけこんな不幸な境涯なのだろうと考え、次第に瞋(いか)りの念が沸き起こり、瞋りの想念から、心の中に地獄を出現させてしまいます。
 このように、自分の考え方と違うものに対して不愉快を感じたり、考え方が自分中心であるため、自分と違うものを認めようとせず、みな不愉快だ。自分以外のものは一切気に入らない。一つも認めない。許さない。というような我儘な心持ちになり、自分の考えと、違うものを喜ばない気持ちが増長し、仕舞に瞋りを発してしまうようになります。
 瞋りを発すれは、少なからずも、相手を敵にすることになってしまい、いずれは孤立し、ひとり寂しく誰からも相手にされなくなってしまいます。
 瞋りの気持ちが絶頂に達している時は、周囲の人たちも迷惑するもので、味方をする人が一人もなくなります。
 当の本人は、親や子も、夫婦も、兄弟も、友達も、犬や猫まで、自分の回りにいるのは、みな敵だと思うような気持ちになってしまいます。
 人間のというものは、本来、家族や仲間と共にいたわりあって生きる。
 また、共に楽しみ、励ましがあったりするのですが、本来の姿を離れて一人ほっちになるということは、非常に寂しいことであり、苦しいことであり、辛いことです。
 心の中は苛立ちと瞋りで、浅ましい心になるものです。
 不満や瞋りから自分だけ何故こんな目に逢うのかなどと考えたり、苦しさややりきれなさを感じて生活をしていると、心の中も境遇も自然に苦しみの世界に身を置く事となってしまいます。
 地獄界の因縁として、五逆罪(五種のもっとも重い罪悪。)を、犯したものが落ちる世界といわれ、母を殺すこと。父を殺すこと。悟りを得た人[阿羅漢(あらかん)]を殺すこと。僧の和合を破ること。仏身を傷つけることの五つをいい、これを犯すと無間地獄(むげんじごく)に落ちるとされています。
 また、十悪といって、身(しん)・口(く)・意(い)の三業(さんごう)で作る十種の罪な生活を送る者が落ちる世界が地獄界です。
 この世界に落ちる因縁は次のとおり。
 殺生・倫盗・邪淫の「身三」、妄語・両舌・悪口・綺語の「口四」、貧欲・瞋恚(しんに)・愚痴の「意三」をいいます。

二、餓鬼界

 餓鬼界は、いつも不足を感じ求めて得られない苦しみの境界です。
 例えば、どんなにたくさんの物を食べても満腹感が無く満足しない心をいいます。
 また、周りの人達が気遣い、いろいろ世話をしてくれても感謝する気持が少しもなく、もっとして欲しい、もっと、もっとと求めて止まない心の状態が餓鬼界です。
 このことは、食べ物に限った事ではなく、全ての物欲の部分をいいます。
 この、餓鬼の世界は貪欲(とんよく)の念が強いために、自分自身を満足させることがなく、欲しい欲しいという思いだけが極端に強くなります。この念は、どうして起こるかといえば、
 すべてを自分中心に考えてしまい、貪(むさぼ)る心が強すぎるためです。
 この貪りの心でいっぱいになった人は、いつも不足や不満、不安や苛立ちといった感情が、心の中の全体を占めていきます。
 このような考えに陥った人は、他の健全な考え方ができなくなり、自分の都合でわがままな生活となります。
 このような行為は周囲から相手にされることもなくなり、孤独となり、行いも見苦しさを増し、除々に餓鬼を思わせるような形相になってしまいます。
 そして、お金や物を貪り、ある者は、名誉を貪り、勢力を貪り、人の親切を貪り、もっと何とかしてくれそうなものだと考え、誰に対しても満足を感じることができなくなってしまいます。
 このようになる原因については、昔から次のように言われています。
  1. ケチで欲が深く布施をしない人。また、財物をたくさん蓄え、独り占めする人。
  2. 隙をうかがい他人のものを、ひそかに盗む人。
  3. 両親に孝行しない人。また、父母、兄弟、妻子を奴隷のように扱う人。
  4. 性格上、貪り・瞋り・愚痴・慢心・疑りの心が強く、優しさのない人。

三、畜生界

 畜生界とは、いつも愚痴の心が支配し、知恵が足りない世界観をいいます。
 いいかえれば眼前の事ばかりに囚われ、思慮分別が足りない人のことです。
 物事は、偶然に起こるものではなく、みな起こるべくして起っています。
 釈尊も諸行無常の真理を説いているように、同じ状態がいつまでも長く続くものではありません。
 人はみな悪いことがあると、その事象がいつまでも続くと錯覚してしまい、眼前のことはかり見て、喜び、悲しみ、得意になったり、落胆したりする人間の心境や境遇を言います。
 即ち、後先を考えず眼前に囚われて愚痴の心を起こし少しも感謝や喜びの無い生活をする世界をいいます。この世界に落ちる人は次のような因縁によるとされています。
  1. 悪業をなし、反省し罪改めることを誓うが、密かに同じ罪を繰り返す人。
  2. 借金をそのままにして償わない人。
  3. 殺生して身をもって償わない人。
  4. 経法を聴受することを喜ばない人。

四、修羅界

 修羅界とは、この世界は、争いが絶えない世界をいいます。
 万事を自分の都合の良いように解釈し、都合の悪い事は、全て相手にこじつけて良い事だけ自分のものにする考え方です。
 都合の悪い責任を相手に押し付ける事が争いが起きるわけですが、この世界観の人は諂曲(てんごく)といって、物事を悪い方向にこじつける習性があります。
 このような心持の人は、悪いことは、みな相手や他人にこじつけて 良い事だけを自分のものにするというように、正しい道理を曲げて、万事を自分の都合のよいように解釈して、責任は他の者に押しつけようとすることから争いが起こるのです。
 この諂曲の心持ちが強い人には、必らず争いが起こり、修羅の世界を出現させてしまいます。
 この世界に落ちる人の因縁は、ただ他より勝れていると思い、嫉妬、自慢、自大〈自ら尊大になる事〉、また、自惚れの強い人が陥いる世界です。
 前記の地獄・餓鬼・畜生を三悪道といい、修羅を加えて、四悪趣ともいいます。

五、人間界

 人間は、いろいろ迷いが起こりやすいものです。
 この迷いを極端な考えにならない内に、途中で喰い止めることが出来る人を、人間界の世界観を持つ人といいます。
 心に迷いが在っても、冷静に対処し、喰い止めることができ、極端にならないですむ境涯の人が人間界といいます。
 日々の生活の中には、腹の立つことがあったり、怨む心も起きたりします。
 また、嫉む心があっても、自分がいたらなかった事として反省し、悪い行いや考えを喰い止めて生活して行けることが大事な事です。
 そういう努力を惜しまない境遇の人が人間界の住人です。
 この世界に生まれる人の因縁は、次のとおり。
  1. 中程度の十善(十悪の反対の行為)を修した人、この世界に生まれる。
  2. 恩に報いる人。
  3. 先祖供養などをキチンとする人。

六、天上界

 この世界は、楽しみや嬉しい事の多い世界観をいいます。
 人として、恵まれた生活環境に生を受けることが出来たり、人生に於いても、非常にうれしい事があり、喜び事の多い環境の人がいます。
 そういう人を天上界の住人といいます。
 しかし、多くの人の天上界の生活は、「天上界にあっては、後衰をうけ」と教えられていますように、その喜びの時間は短く忽ちにして、憂い、悲しみ、苦しみ、悩みが起こる世界に戻されてしまいます。
 人間とは、おかしなもので《幸せだな》と感じると、有頂天になって自慢して相手が聞きもしないのに、あれこれ話したり、また、幸せに慣れていない人は、《いつまで、この幸せが続くのか?》などの不安を覚えたりする人が多いものです。
 この世界の境地の人は、教えを聞いて、その喜びが長く続くような生活。
 つまり、感謝の心がけで生活をしなければなりません。決して有頂天となってはならないと戒めています。この世界に生まれる人の因縁は次のとおり。
  1. 過去世に最上の十善を修した人。
  2. 神仏を大事にする人。
  3. 全てのことに感謝ができる人。
 これら六つの生活環境を六道といいます。
 一般的に、普通の人はこの六道の境地をグルグルと回って、喜びや苦しみを感じていると説かれています。これを、六道輪廻(ろくどうりんね)といいます。

七、声聞界

 声聞界とは、仏さまの教えを聞いて、その通りに教えを守って生活をして行こうと考える境界であります。
 仏様は、むさぼるとか、怒るとか、嫉むとか、憎むことは、みな執着の心が作り出し、苦しむ原因となるものであると説いています。
 一般的に多くの衆生は、環境が恵まれ、どんなに、すばらしい状態であっても、その欲望を、なかなか満足させることが出来ないものです。
 貧しい人が富める人を羨ましがるけれども、富める人でも、いろいろ不足や不満、不安を抱えていて、富を持っているだけでは本当の満足はあり得ないのです。
 この世は、無常の世界で常であるものはなく、常に移り変わっている世界です。
 人の考えや環境も絶えず変化しています。
 人の一生は無常であり、頼りにならないものです。
 その頼りにならない自我や執着を頼りとして、争いや憎しみを起こすことは、無意味なことです。
 真理の教えを聞いて、悟りへ近づく生活努力をする人の境地を声聞界といいます。
 八正道(はっしょうどう)を中心とした修行によって仏の世界へと導かれる世界。悟りへの道「四諦・八正道」

八、縁覚界

 縁覚界とは、縁に依って悟るという意味です。
 この境涯の人は、仏様の教えを聞くだけでなく、自分の毎日の生活経験を思い合わせ、自然界の摂理を通し、人生の無常を悟り、意義ある生活を考え、世間の悪い生活に執着しないように、精進、努力する人が縁覚界の人です。
 仏様はこの縁覚界の人に十二因縁(じゅうにいんねん)の法門を説き、仏の境地へと導いたとされています(悟りへの道「十二因縁」)。

九、菩薩界

 人は、自分一人が悟りを得たなら、それで満足だと考える人が多いものですが、それで本当に満足するものでしょうか。
 自分だけ(渇愛)の思いでは、決して真の満足は得られないものです。
 例えば、家族にあっては、自分に良いことがあっても、誰かが事故や病気になると、幸せだと思っていた気持ちもどこかにとんでいってしまいます。
 世の中の人々の中には、迷い苦しんでいる人が数え切れないほど沢山います。
 自分が、ある程度の執着を離れた心持ちになって、冷静に社会を見渡しますと、苦しみや悩みをかかえて生活する人。瞋りが充満して常に争いを起こす人。嫉妬や嫉みなど心に不安を感じている人。また、悪心から人を陥れようと計らいをする人等々。様々な苦しみが満ち溢れています。
 このような人々を拝見しますと、いかにも気の毒な状態にある人が多いことに気がつきます。
 誰しも、まともな心を持った人は、このような三悪道や四悪趣といった、悲しい生活から脱出し、少しでも幸せになって欲しいと願うものです。
 このような心を慈悲心といいます。
 この慈悲心から、少しでも、人々を楽しい生活の送れるようにしてあげたいという想いが出来てきます。
 このような決心や覚悟で、自他共に救われていこうと行動できることが大事です。
 ただ、このように苦しむ人々を救うには、それなりに助けたり救うだけの力がなければ、人を助けたり救ったりすることはなかなか出来きるものではありません。
 仏様は、このような人々に六波羅蜜(ろくはらみつ)の法門を説き、自らが修行を怠らず精進することを勧めました。
 衆生救済の手立てとして、智慧をみがき、徳分を養い、修行を怠りなく続けて慈悲の実践をする人を、仏教では菩薩と呼んでいるのです(悟りへの道「六波羅蜜」)。

十、仏界

 仏界とは、菩薩の修行を積み、すっかり迷いがなくなった世界観をいいます。
 智慧や慈悲が広大なものとなり、洪水のように満ちあふれて止む事なく、一切の人々のために心をつくして、慈悲心や知恵によって救済や守りの働きが完全無欠の状態になった時が仏の境地だといわれています。
 以上のように、声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の四つを、四聖道と呼び、尊い修行により成就するものとされています。
 このことから、自分の境地を分析してみますと、仏さまや菩薩様のように優しい慈悲の心もありますし、逆に瞋り(修羅)の心やむさぼり(餓鬼)の心も持ち合わせていますし、時に、悪いことが重なると、苦しみのどん底(地獄)に落ち込んでしまいます。
 このことから、私達、一人一人の心の中に、十界の全てが具わっているのです