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資料館② 日本の美意識編

日本の美意識

 人間が生きてゆく際に、「強さ」と「美しさ」が必要です。日本的な強さと美しさとは、何でしょうか。
日本には、古い伝統を持つ日本独自の品性、美学が受け継がれて来ました。
 日本人は、様々な人間の集団の中で相手に最も心のこもった接し方をしようと努めてきました。
このことが日本独自の礼儀、作法を育てていきました。そして、それを身に付けた日本人にある種の品性を持たせました。
 日本人が好む、「義理」「人情」「粋」などの概念は、「日本的合理性」の一部を形作るものです。
この品性は、誰にもわかりやすく、うけいれやすいものです。
 武士道は、日本的合理主義のひとつのあらわれです。武士道精神の重要な要素の一つに、「弱者をいたわれ」という教えがあります。武士は、卑怯を最も嫌いました。強者が力ずくで弱者をやっつけることを卑怯な行為と考えました。
 また、「1回の食事に1膳の箸を使う文化」は、「1回の食事に平気で何本ものスプーンやフォークを使う文化」と比べて、他人を慮る気持ち、自然を大事にする気持ちに表れています。
 日本人はもとより「見た目」より、「人の気持ちを読むように」という考えを重んじてきました。
自分の主張を控えて「人の話を相手の気持ちになって聞ける」者が、「人情のわかる立派な人物」とされてきました。
 「言わぬが花」という言葉があります。余分なことを語らぬことが、美しいふるまいとする考え方です。言葉を控えることは、相手に対する気遣いでもありました。
 日本には、詫びるべきときには潔く謝り、誰かを褒めるべきときには素直に褒めるのが良いとする美意識があります。
 勝負に敗れた者が「まいりました」と言った後「お見事な腕前、感服しました」と褒めるのはすがすがしですが、悔し紛れに相手を非難したり、何も言わずに不貞腐れているのは見苦しい行為です。相手の悪口や誰かの陰口を言う人間は、汚ならしいという考えも作られました。
 「遠まわし」に、相手の欠点を口に出さずにわからせることが優しさとされました。
 日本の伝統的な習い事には、型がつきものです。空手も、相手に対する一礼から始まります。
試合前の一礼の習慣を身に付けることを通じて、相手をいたわる心や相手の技を敬う心を覚えていきます。
 このような日本人の心、日本の美意識を理解することは、武道の根底にあるサムライの心を理解することに繋がると思います。
  1. 旅について
     古来、日本人にとって、旅とは現実世界から他界へ向かう行為でした。そこには、死者の霊や祖霊が住むと考えられていたのです。
     古人を慕い、その跡を訪ねた西行法師や芭蕉にも、その例を見ることができます。
     現代においても、盆・正月の帰省は、祖霊に出会うための旅ということができます。
    他界に向かうことは擬似的な葬送を意味しました。それによって、汚れに満ちた生命を浄化し、再生するためです。
     四国八十八ヶ所を巡るお遍路さんが死装束をまとうのも、他界を訪ね、くぐり抜けることで、生命の浄化をはかるためにほかなりません。
  2. 優美について
     日本人は、変化に富む自然を愛し、その美しさに神々しさを感じて、やがて信仰の対象として見るようになります。
     もともと神社の原型は、岩なり木なり山なりといった特定の自然物を「依代(よりしろ)」として、そこに神の霊が降りるて臨まれると考えられたものでした。
     こうした日本の美意識の根底にあるものを「優美」であると考えます。
     やがて、日本には仏教が伝えられ、多くの仏像が作られるようになりました。天平・白鵬時代の作品など優美そのものといえます。
     仏像は、初めは金銅像ばかりでしたが、そのうち日本では木像が主流になっていきます。これは他の国では見られない現象だそうで、注目すべきことと思えます。
     次第に仏教の死生観は、広く深く日本人の心性に浸透していきます。
     本来、培ってきた優美さに仏教の死生観が加わることで、後世の幽玄や、侘び・寂びといった美意識が生まれたとされます。
     さて、平安時代には、優美さを主体とした国風文化が花開きます。これは、ひらがなの誕生によってもたらされたといえます。
     その背景には、それまで仏教に押されていた神道が、神仏習合を通じて息を吹き返したという事情もありました。
     平安文化を語る上では、やまと絵の発生も欠かせません。
     やまと絵は、四季折々の自然がテーマです。ひらがなで書かれた和歌や物語を中心の題材として描かれます。
     その特徴としては、3点挙げられます。
    1. 彩色が施されていること
    2. 高い視点からの鳥瞰図で描かれること
    3. 細部の表現が同じ描写を繰り返すこと(様式化されている)
    優美を歌い上げた人達の系譜も重要です。西行、鴨長明、吉田兼好と続いていきますが、彼らは皆、神道と仏教との双方に深く関わっていることが特徴でした。
  3. 幽玄の世界
     能の大成者である世阿弥は、数奇な生涯を送りました。
    観阿弥の息子として親子もろとも、足利三代将軍義満の絶大な庇護を受けた役者でした。
     ところが、義満亡き後は、それまでの恨みもあって、冷遇されます。ひどいことには、71歳という高齢で、佐渡へ島流しに遭っているのです。
     世阿弥は、それゆえ役者としてよりも、作品づくりに力を注ぐことになります。有名な花伝書をはじめとするテキスト、理論書も著しました。
     結果的には、不遇に見えた時期があって良かったのかもしれません。
     能の主役であるシテは、たいてい面を付けます。これは死者、あるいは霊だけの存在であることを示します。舞台の背景に松が描かれているのは、そこに神が舞い降りるためです。
     幽玄とは、普通、奥深い優美さとしてとらえられます。幽玄の幽は、幽界、つまりあの世です。玄は玄関ですから、入口ですね。結局、幽玄とは、あの世への入口ということにもなります。
     日本人にとっての美しさとは、幽玄にしろ侘びにしろさびにしろ、すべて未完の美学であると言います。すべては、限りある旅の中での、完成しない道のり。
     「死に向かう、侘びしく寂しい」そんなネガティブな状態の中において、ポジティブな価値を見出すのが、滅びの美学なのです。
     だからこそ、西行や芭蕉は旅に明け暮れました。旅の中での死を望みました。
もう一つ、日本人の美学において欠かせないのが、自然です。
 神が宿る自然をめでるのは、日本人の建築様式の根幹となっています。
 閉じた空間を作るがゆえに、その閉じた中でのインテリアが重要になっていった西欧型建築と異なり、日本の空間は、常に自然に開かれ一体となろうとします。
 自然と一体になることで初めて空間が成立するから、自然と内部は簡素になりました。
そのような、自然と一体となり循環しようとする行為を突き詰めたものが、旅だともいえます。
 『フランダースの犬』は日本だけで共感を得ていると聞きます。それも日本人の滅びの美学にフィットしているからだと感じます。
 一般に日本人の美の概念としては、「わびさび」や「幽玄」、「いき」等が知られています。
 これらは、中世以降に成立したものであり、それ以前の「美」の概念としては、汚れのないものを指して言う「きよし」や清らかなるものを指す「キヨラ(清)」などがあげられます。

日本人の既存の「美」の概念
 日本語で言う「美しい」という言葉が、今日の我々が使っているような意味を持つようになったのは、おおむね室町時代以降だといいます。
 およそ奈良時代までは、ひらがなでの「うつくしい」という言葉が、親しい人への愛情や、小さいもの、可憐なものに対する愛情を表す言葉でした。
 やがて、美的性質一般を意味するものに昇華していったということは、日本人の美意識が、「自分より小さいもの」「弱いもの」「保護してやらなければならないもの」に対して向けられていたといえます。
 また、上代の人々は美しいものを「きよし」と呼んでいました。
 上代の日本人の「美」を表す概念は、クハシ(細)、キヨラ(清)、ウツクシ(細小)、キレイ(清潔)と変化しており、「清なるもの」「潔なるもの」「細かなるもの」に同調していたと考えられています。
 中古(平安時代)には、「みやび」や「をかし」、「なまめかし」等の「美」の概念が成立します。
そして中世(鎌倉・室町時代)には、「侘び(わび)・寂び(さび)」や「幽玄」といった「美」の概念が成立します。
 近世(江戸時代)には、「粋(いき)」等の「美」の概念が成立します。
 さらに近代(明治以降)になると、これまでの日本人の「美」の概念と異なる、西欧的な「比例(プロポーション)」「調和(ハーモニー)」「対称(シンメトリー)」「均衡(バランス)」といった「美」に、多くの人々の目が向けられました。
 しかし、逆に欧米人たちによる、日本の「美」の再発見がなされました。
日本芸術の特徴として、「単純さ」という概念をあげ、伊勢神宮や桂離宮を絶賛しています。
 日本人の美意識として「 暗示または余情」や「いびつさ、ないし不規則性」、「簡潔」、それに「ほろびやすさ」などの「美」の概念をあげられました。

「わびさび」と「あいまい」
 室町時代に定着したとされる「わび」、「さび」です。
「わび」とは、形に残らない主観的なものを言い、心や精神の在り方を指します。
「さび」は言行における現れ方を規定、客観的で形に残るものとしています。
そしてこの両者は一体化をなしてこそ生成するとしています。
 「わび」「さび」は別々の意味を持つ、個別の概念ですが、一体化をなしてこそ、この概念の意味が生まれると考えられ、「わびさび」として扱うことが多く見受けられます。
 『広辞苑(第5版)』に「わびさび」の語はなく、「わび」「さび」のそれぞれの意味を見てみると、
「わび」とは、飾りやおごりを捨てたひっそりとした枯淡な味わい。
「さび」とは、古びて趣のあることとあります。
 したがって「わびさび」とは、飾りの無い清楚で簡素な古びた趣のことと考えられます。
その意味するところの飾りの無い簡素さは、空白・余白を意味し、それは見るものに無限の美を想像させ「多義的」で「不明確、不明瞭」と言えます。
 この「多義的、不明確、不明瞭」こそ、すなわち「あいまい」であり、「わびさび」の概念に「あいまい」という概念が見いだせます。

「幽玄」と「あいまい」
 「わびさび」と同時代の室町時代の芸術を貫いていた美の概念に「幽玄」があります。
日本の芸術史の中で「幽玄」は、平安時みぶただみね代中期の歌人、壬生忠岑がはじめて提唱した理念でした。
 その後は、和歌における美のテーマとして伝えられ、室町時代になって幅広い芸術観として確立しました。
 そして、幽玄をもっとも高度に論理化し、自らの芸術の中で実践してみせたのが、室町時代の能の大成者・世阿弥でした。
 幽玄とは、余情を楽しむ芸術的「美」の概念と言えます。
すなわち「幽玄」とは、今、眼の前にある姿・形の美しさだけを楽しむのではなく、そこに隠された  
 姿の意味や美しさを想像することで、感動に深みを与えることと言えます。
世阿弥の記した『風姿花伝』にも「秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。」とあります。
 「幽玄」とは隠されたもの、秘するものがあってこそ、美を生み出すということが言えます。
したがって「幽玄」という概念には、秘するもの、すなわち「不明確、不明瞭」なものが重要な「美」の要素として存在しているということになります。
 このように「幽玄」という概念にも「不明確、不明瞭」すなわち「あいまい」という「美」の概念が見いだせます。

「いき」と「あいまい」
 日本の色彩文化の中に、「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)」いう言葉があります。この言葉からもわかるように、我々日本人は古くから鼠色や茶色を愛してきました。
 室町時代には禅などの影響もあり、水墨画では「黒は五色を兼ねる」といわれました。
黒を薄めた色の濃淡によって微妙な表現を持つ鼠色は、芸術の分野などでの美しい色として認識されていました。
 江戸時代も中期以後になると、庶民は赤や紫などの派手な色は禁じられ、茶系統・鼠系統・藍色系統に限られていたので、流行色もその中に限られました。
 当時の「いきな色」として、鼠系としては「深川鼠 (ふかがわねず)」、「銀鼠( ぎんねず)」、「藍鼠 (あいねず)」、「漆鼠 (うるしねず)」、「紅掛鼠(べにかけねず)」などをあげられます。
 「いき」な色とされる鼠色は、「不明確、不明瞭」「多義的」な感覚をイメージさせます。
 したがって、「粋(いき)」という概念にも「不明確、不明瞭、多義的」すなわち「あいまい」な概念が見いだせます。

「暗示」と「あいまい」
 日本人の美の概念として、「暗示、余情」をあげられます。
この「暗示」は「美」の概念としては、水墨画などでの余白の「美」と言われるものに見られます。
 「唯紙上に一物もなき所こそ為し難し」という池大雅の有名な言葉がありますが、これは日本の絵画において、余白がいかに重要視され、余白による「暗示」の難しさや、その「暗示」による「美」の表し方の困難さを物語っています。
 このように「暗示」における「不明確・不明瞭」な部分に、日本人は「無限の美」を創造してきたと言えます。
 暗示の空間で一般に知られているのが、石庭で有名な「竜安寺の庭園」があげられます。
一般に竜安寺石庭は、大海に散在する島を象徴していると言われています 。
 しかし、はっきりした作者の意図は依然謎のままです。
竜安寺の庭園に関する解釈は、現在まで人により、時代によりさまざまであったが、過去においてそうであったように、現代においても定説というものはありません。
 しかし竜安寺の石庭は常に名園とうたわれ、常に人びとの関心の対象となり、長年人々の心をうち続けてきました。
 従って「暗示」にも「不明確、不明瞭」すなわち「あいまい」という「美」の概念が見いだせます。

「不規則性(左右非対称)」と「あいまい」
 日本の伝統的建築は、古来より大陸の影響を強く受け、特に寺院建築においては、初期より左右対称性が強く、金堂、塔、中門が一直線に並んだり、塔を中心にして金堂が左右に配されたりしています。
 法隆寺においては、形態の異なる塔と金堂を左右に置き、しかもその均衡を微妙に保つ距離や大きさのバランスの良さで配置されています。
 これは大陸にも例が見られず、日本独自のものといわれています。
 このような左右非対称な配置は、日本を代表する建築物の桂離宮の配置にもみられます。
中世の半ば頃からは一般の住居でも、空間の左右非対称化が始まったとされます。
 また茶室にもこの「不規則性」が見いだせます。茶道における茶室の設えでは、常に重複を避け、部屋の装飾に使う品々は、色彩やデザインが重複しないものが選ばれます。
 生花があれば、花の絵は許されません。丸い釜を用いるのなら、水指は角のものが使われます。また床の間に花器や香炉を置く場合は、真中に置きません。
 これは空間を真半分に分けてしまうからです。
床柱は、部屋の単調を破るため、部屋の他の柱と異なる材種の木を用います。
 このように茶道文化における茶室の空間は、対称や重複を避け、わざと均斉を崩し、そのアンバランスな「不定的・流動的」な感覚、すなわち「あいまい」の中に「美」を見いだしてきたといえます。
 このように、左右非対称な「不規則性」にも「不定的・流動的」すなわち「あいまい」という概念が見いだせます。

「ほろびやすさ」と「あいまい」
 日本の伝統的建築は、決して永久的ではない木材で造られ、やがては朽ちてしまう建物を、つねに新陳代謝して、つねに新しく、永遠に生きながらえんとしてきました。
 20年あるいは21年ごとに同一の形式のまま建て替えられる伊勢神宮の式年御造営はその代表的なものです。それは常に新陳代謝を繰り返し、滅び、再生を繰り返すのです。
我々日本人は古来より、「ほろび」を見越して建物を建てたのです。
 また和歌などに見られる、この「ほろびやすさ」という概念は、「日本人は、このほろびなくしては、美もあり得ない」ということを意識させます。
 その意味するところは、普遍的ではなく「流動的」で、すなわち「あいまい」といえます。このように「ほろびやすさ」にも「あいまい」という概念が見いだせます。
「侘(わび )・寂(さび)」
 わび・さび(侘・寂)は、日本の美意識の1つです。
一般的に、質素で静かなものを指します。本来侘(わび)と寂(さび)は別の概念ですが、現代ではひとまとめにされて語られることが多いです。
「侘(わび)」
 「侘(わび、侘びとも)」とは、動詞「わぶ」の名詞形で、その意味は、形容詞「わびしい」から容易に理解されるように「立派な状態に対する劣った状態」となります。
 転じては「粗末な様子」、あるいは「簡素な様子」を意味しています。もっと端的にいえば、「貧しい様子」「貧乏」ということになります。
 本来は良い概念ではありませんが、禅宗の影響などもあってこれが積極的に評価され、美意識の中にとりこまれていきました。
 「侘」に関する記述は、古く万葉集の時代からあると言われています。
「侘」を美意識を表す概念として名詞形で用いる例は、江戸時代の茶書『南方録』まで下り、これ以前では「麁相」(そそう)という表現が近いですが、千利休などは「麁相」であることを嫌っていたから必ずしも同義とは言い難いです。
強いて言えば「priceは高くないが、qualityは高い」という概念になります。
 茶の湯では「侘」の中に単に粗末であるというだけでなく、質的に(美的に)優れたものであることを求めるようになったのです。
 この時代、「侘び」の語は「侘び数寄」という熟語として現れます。
これは「侘び茶」の意ではありません。侘び茶人、つまり「一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ、この三ヶ条整うる者」(宗二記)のことを指していました。「貧乏茶人」のことです。後の千宗旦の頃になると「侘」の一字で無一物の茶人を言い表すようになります。
 「侘タ」は、数ある茶の湯のキーワードの一つに過ぎなかったし、初心者が目指すべき境地ではなく一通り茶を習い身に着けて初めて目指しうる境地とされていました。
 この時期、侘びは茶の湯の代名詞としてまだ認知されていません。ただし宗二は「侘び数寄」を評価していますから、侘び茶人が茶に親しむ境地も評価され、やがて茶の湯の精神を支える支柱として「侘び」は静かに醸成されていったのです。
 「侘」は茶の湯の中で理論化されましたが、「わび茶」という言葉が出来るのも江戸時代です。
特に室町時代の高価な「唐物」を尊ぶ風潮に対して、村田珠光はより粗末なありふれた道具を用いる茶の湯を方向付け、武野紹鴎や千利休に代表される堺の町衆が深化させました。
 彼らが「侘び」について言及したものがありませんから、彼らが好んだものから当時醸成されつつあった侘びについて探るより他にありません。
 茶室はどんどん侘びた風情を強め、張付けだった壁は民家に倣って土壁になり藁すさを見せ、6尺の床の間は5尺、4尺と小さくなり塗りだった床ガマチも節つきの素木になりました。
 紹鴎は備前焼や信楽焼きを好んだし、利休は楽茶碗を創出させました。
日常雑器の中に新たな美を見つけ茶の湯に取り込もうとする彼らの態度は、後に柳宗悦等によって始められた「民芸」の思想にも一脈通ずるところがあります。
 江戸時代に多くの茶書によって茶道の根本美意識と位置付けられるようになり、侘を「正直につつしみおごらぬ様」と規定する『紹鴎侘びの文』や、「清浄無垢の仏世界」とする『南方録』などの偽書も生み出されました。
 また大正・昭和になって茶道具が美術作品として評価されるに伴い、その造形美を表す言葉として普及しました。
 柳宗悦や久松真一などが高麗茶碗などの美を誉める際に盛んに用いています。その結果として、日本を代表する美意識として確立しました。岡倉天心の著書The Book of Tea(『茶の本』)の中では“imperfect”という表現が侘をよく表しており、同書を通じて世界へと広められた。
「寂(さび)」
 「寂(さび、寂びとも)」は動詞「さぶ」の名詞形で、本来は時間の経過によって劣化した様子(経年変化)を意味しています。
 転じて漢字の「寂」が当てられ、人がいなくなって静かな状態を表すようになりました。
同様に金属の表面に現れた「さび」には、漢字の「錆」が当てられています。
 英語ではpatina(緑青)の美が類似のものとして挙げられ、緑青などが醸し出す雰囲気についてもpatinaと表現されます。
 本来は良い概念ではありませんが、『徒然草』などには古くなった冊子を味わい深いと見る記述があり、この頃には古びた様子に美を見出す意識が生まれていたことが確認されます。
 室町時代には、特に俳諧の世界で重要視されるようになり、能楽などにも取り入れられて理論化されてゆきます。
 さらに松尾芭蕉以降の俳句では中心的な美意識となりますが、松尾本人が寂について直接語ったり記した記録は非常に少ないとされます。
 俳諧での「寂」とは、特に、古いもの、老人などに共通する特徴のことで、寺田寅彦によれば、古いものの内側からにじみ出てくるような、外装などに関係しない美しさのことだといいます。
 具体的な例で挙げられるのは、コケの生えた石があります。
 誰も動かさない石は、日本の風土の中では表面にコケが生えて緑色になります。日本人はこれを石の内部から出てくるものに見立てました。
 このように古びた様子に美を見出す態度であるため、骨董趣味と関連が深いです。
 たとえば、イギリスなどの骨董(アンティーク)とは、異なる点もあるものの、共通する面もあるといえます。「寂」はより自然そのものの作用に重点がある一方で、西洋の骨董では歴史面に重点があると考えられます。
「無常(むじょう)」
 無常(むじょう)は、この現象世界のすべてのものは消滅して、とどまることなく常に変移しているということを指します。
 釈迦は、その理由を「現象しているもの(諸行)は、縁起によって現象したりしなかったりしているから」と説明しています。
 釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていました。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)といいます。
 この「無常」を説明するのに、「刹那無常」(念念無常)と「相続無常」の二つの説明の仕方があります。刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅すると言う姿を指します。
 相続無常とは、人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程の姿を見る場合を指して言うと、説明されています。
 この無常については、「諸行無常」として三法印・四法印の筆頭に上げられて、仏教の根本的な考え方であるとされています。
 なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」であるとしてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説きました。
 これを常楽我浄と言うが、これについては大乗の大般涅槃経に詳しいです。
日本人と「無常」
 「祇園精舎の鐘の声」で始まる軍記物語『平家物語』、吉田兼好の随筆『徒然草』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」で始まる鴨長明の『方丈記』など、仏教的無常観を抜きに日本の中世文学を語ることはできません。
 単に「花」と言えばサクラのことであり、今なお日本人が桜を愛してやまないのは、そこに常なき様、すなわち無常を感じるからとされます。
 「永遠なるもの」を追求し、そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美を感じる傾向を根強く持っているとされます。
 「無常」「無常観」は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言ってよいと思います。
「幽玄(ゆうげん)」
 「幽玄(ゆうげん)」とは、文芸・絵画・芸能・建築等、諸々の芸術領域における日本文化の基層となる理念の一つです。
 本来は仏教や老荘思想など、中国思想の分野で用いられる漢語でありましたが、平安時代後期から鎌倉時代前期の代表的歌人であり、千載和歌集を撰集した藤原俊成により、和歌を批評する用語として多く用いられて以来、歌論の中心となる用語となりました。
 同じ歌道の理念である有心(うしん)とともに並び用いられることが多いですが、本来は別の意味の言葉です。
 その後、能・禅・連歌・茶道・俳諧など、中世・近世以来の日本の芸術文化に影響を与え続け、今日では一般的用語としても用いられるに至っています。
「みやび」
 「みやび」は、「をかし」「なまめかし」「あて」「らうたし」などとともに、平安時代の美的理念を表すことばでありますが、「をかし」が一般的な美、「なまめかし」が優しく、しかも清新な、時には、官能的な美、「らうたし」が愛の上の美を表現するのに対し、「みやび」は「あて」と同じく、貴族的な美を表現しています。
 「雅」は上二段動詞「雅ぶ」の連用形が名詞化して出来た語です。
「雅ぶ」=「宮」+接尾語「ぶ」。宮廷らしい状態にある、宮廷におけるような動作をする意です。
 漢和辞典をひっくりかえしますと、
【解字】で形声文字。隹+牙。音符の牙はからすの鳴き声を表す擬声語。からすの意味を表す。
また、みやびな夏祭りの意味の夏に通じ、みやびやかの意味を表す、とあります。
「もののあはれ」
 「もののあはれ(もののあわれ、物の哀れ)」とは、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つです。
 折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や哀愁。日常からかけ離れた物事(=もの)に出会った時に生ずる、心の底から「ああ(=あはれ)」と思う何とも言いがたい感情です。
 「もののあはれ」の発見。「江戸時代の国学者本居宣長が自著『源氏物語玉の小櫛』において提唱し、その頂点が『源氏物語』であるとしました。
 江戸時代には、幕府の保護、奨励した儒教から生まれた「勧善懲悪」の概念が浸透し、過去の平安時代の文学に対しても、その概念を前提にして議論され語られた時期がありました。
この理念の発見はそれを否定し、新しい視点を生み出したことになります。
「をかし」
 「をかし」または「おかしい」とは、文学における美的理念の一つです。語源は愚かな物を表す痴(おこ)が変化した物という説が有力です。
 平安時代において「をかし」は「もののあは」れと共に平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的 理念の一つです。
 「もののあはれ」が、しみじみとした情緒美を表すのに対し、「をかし」は、明るい知性的な美と位置づけられる理念です。
 「をかし」は、景物を感覚的に捉え、主知的・客観的に表現する傾向を持ち、それゆえに鑑賞・批評の言葉として用いられます。
 この美的理念に基づき記されたのが『枕草子』です。その為、『源氏物語』を「もののあはれ」の文学と呼びます。一方、『枕草子』を「をかし」の文学と呼びます。
 しかしこの理念は枕草子以外の平安文学ではあまり用いられず、それゆえ「をかし」の文学は枕草子固有の物になっています。
  以降、「をかし」は滑稽味を帯びているという意味に変化しました。
 世阿弥の能楽論では狂言の滑稽な様を「をかし」と呼び、これが江戸時代に滑稽本などに受け継がれて現在の滑稽味のあるという意味に至ったと思われます。
「風情(ふぜい)」
 「風情(ふぜい)」は、日本古来より存在する美意識の1つです。
 一般的に、長い時間を経て大自然によりもたらされる物体の劣化や、本来あるべき日本の四季が造り出す、儚いもの、質素なもの、空虚なものの中にある美しさや趣や情緒を見つけ、心で感じるということです。
 またそれを感じ、心を平常に、時には揺さぶらせ豊かにするということです。
しかしながら「風情」とは個々人の生い立ちや教養や美意識の問題でもあり、一概にこれであると定義することはできない曖昧な言葉です。
 また近年、典型例を挙げれば日本人が紳士の国イギリスに憧れを抱く如く、世界的ジャポニズムの流れによって「風情」に憧れを抱き、日本を好きになる外国人も少なくありません。
「粋(いき)」
 「粋(いき)」とは、江戸における美意識(美的観念)のひとつでありました。
江戸時代後期に、江戸深川の芸者についていったのがはじまりとされます。
 身なりや振る舞いが洗練されていて、格好よいと感じられることです。
また、人情に通じていること、遊び方を知っていることなどの意味も含みます。
反対語は「野暮(やぼ)」です。
 「粋」には、単純美への志向など、「侘び・寂び」などの日本の美的観念と共通部分もあります。
またこれまで海外では「寂び」が日本の美学の代表のように捉えられていることもあります。
 だが、無常などの宗教観念と関連する「寂び」は難解とされ、日本人でも説明するのは簡単ではありません。また現在の日本人の日常生活からは、「寂び」はむしろ遠のきつつあるともいえます。
 これに比較して、「粋」は「さっぱり」「すっきり」などという形容が当てはまるように、より親しみやすく、意味は拡大されていますが、現在でも広く日常的に使われます。
 「粋」の要諦には、江戸の人々の道徳的理想が色濃く反映されています。
それは「いき」のうちの「意気地」に集約されます。
いわゆる、やせ我慢と反骨精神にそれが表れており、「宵越しの金を持たぬ」と言う気風と誇りが「いき」であるとされました。
 「粋」に対して「いなせ」という言葉があります。
「いき」は火消しのことで、「いなせ」は魚屋の事だといわれています。
「いきでいなせな」と続けて用いられることも多いですが、必ずしも使用者が明確に使い分けているとは限りません。
 野暮な具体例
  • 本来ならば情緒ある風景に、目立つ看板をいくつも立てる行為
  • 規則に固執する役人根性 <=> 「いき」な計らい
  • (特に男女間の関係への第三者的関与での)配慮の欠如
  • 「おや、お出かけですか」という問いに、「いや、野暮用で…」と答えることがある。
  • こうした場合、重ねて「野暮用って?」などと聞くのはそれこそ野暮である。
  • 過剰な多機能、手回しがよすぎる <=> シンプルな所持品
KY「空気の読めない人」
「渋み」
 渋み(しぶみ)は、日本の美意識の1つです。
苦味・渋味の美味さは大人でないとなかなか理解できないものでありますので、「苦み」「渋み」は、「成熟した大人(特に男性)」の形容詞としても使われます。
 「苦みばしったいい男」などの表現がこれにあたります。転じて、大人っぽく落ち着いた雰囲気を表現して「渋い」と形容します。
 現在の大多数の若者・子供にとって、渋みは彼らの美意識に反します。それは成熟した大人に価値はないと考えているためです。
 彼らの多くが、演歌を嫌うのは、このためです。彼らの親(特に母親)たちが、成熟した大人の価値を否定している可能性が高いといえます。
「残心(ざんしん)」
 残心(ざんしん)とは、日本の武道および芸道において用いられる言葉です。
残身や残芯と書くこともあります。文字通り解釈すると、心が途切れないという意味です。
 意識すること、とくに技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態を示します。
 また技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念でもあります。
 だらしなくない事や気を抜かない事や卑怯でない事であり、裏を返せば「美しい所作」の継続ともいえます。
 相手のある場合において卑怯でない、驕らない、高ぶらない事や試合う(しあう)相手がある事に感謝します。
 どんな相手でも相手があって初めて技術の向上が出来ることや相手から自身が学べたり初心に帰る事など、相互扶助であるという認識を常に忘れない心の緊張でもあります。
相手を尊重する思いやる事でもあります。
 生活の中では、襖や障子を閉め忘れたり乱暴に扱ったり、また技術職の徒弟で後片付けなどを怠ると「残心がない」や「残心が出来ていない」といって躾けとして用いられる言葉でもあります。
 仕舞いを「きちっと」する事でもあります。ちなみに「躾け」とは「美しい」所作が「身」につく事を表した和製漢字です。
 「武道における残心」
武道における「残心」とは、技を決めた後も心身ともに油断をしないことです。
 たとえ相手が完全に戦闘力を失ったかのように見えてもそれは擬態である可能性もあり、油断した隙を突いて反撃が来ることが有り得ます。それを防ぎ、完全なる勝利へと導くのが残心です。
 この精神を詠った道歌に以下のようなものがあります。
「折りえても 心ゆるすな 山桜 さそう嵐の 吹きもこそすれ」
(桜を手に入れたと油断するな。嵐が吹いてしまったらどうするのだ)
 武道の中には、空手・弓道・居合道など、技を行った後に特定の形(型 かた。体の構え)で身構える、相手との間合いを考慮して反撃方法を選ぶ、一拍おいて刀をおさめるといった一挙動を「残心」と呼びます。
 相手の反撃に瞬時に対応する準備と、更なる攻撃を加える準備を伴った身構えと気構えです。
これは、残心をより高いレベルに昇華し、一つの技を行う前・行っている最中・終えた後も引き続き一貫して維持される精神状態を体現したものです。
 芸道の残心と同じく、技を終えた瞬間に動作が終わるのではなく持続性(芸道でいうところの余韻)を持たせます。
 たとえば弓道における残心は、矢を射った後も心身ともに姿勢を保ち、目は矢が当たった場所を見据えることです。
 剣道では、意識した状態を持続しながら、相手の攻撃や反撃を瞬時に返すことができるよう身構えていることを残心と呼 び、残心がなければ技が正確に決まっても有効打突になりません。
 なぎなたの残心のルールは剣道とは異なりますが、剣道同様、正確な攻撃であっても残心がないと無効とされます。
 剣道の試合において勝った事を喜ぶ様(ガッツポーズなど)が見受けられれば、奢り高ぶっているとして、残心が無いとみなされ、勝者が負けの判定を受ける事があります。
 空手における残心とは完全に意識している状態で、自分の周囲と敵を把握し、反撃の準備もできていることです。
 柔術における残心は、拳は繰り出すスピードより早く引き戻す、相手を投げた後もバランスを崩さないなど次の攻撃の準備ができていることを意味します。
 合気道においても、自分が投げたばかりの受け(相手)を意識しながら、万一再攻撃があった場合に備えて体を構えることを残心といいます。
「芸道における残心」
 茶道における残心とは、千利休の道歌に表れています。
「何にても 置き付けかへる 手離れは 恋しき人に わかるると知れ」
(茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)
 また井伊直弼は茶湯一会集において、客が退出した途端に大声で話し始めたり、扉をばたばたと閉めたり、急いで中に戻ってさっさと片付け始めたりすべきではないと諭しています。
 主客は帰っていく客が見えなくなるまで、その客が見えない場合でも、ずっと見送ります。
その後、主客は一人静かに茶室に戻って茶をたて、今日と同じ出会いは二度と起こらない(一期一会)ことを噛みしめます。 
 この作法が主客の名残惜しさの表現、余情残心であると述べています。
 日本舞踊における残心とは、主に踊りの区切りの終わりに用いられ、表現として「仕舞いが出来ていない」ともいわれます。弓道と同じように最後まで気を抜かず、手先足先まで神経を行渡らせ区切りの「お仕舞い」まで踊る事を指します。
「切腹」
 切腹(せっぷく)は、みずからの腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法です。
 主に武士が行った、日本独特の習俗です。近世からは、自死のほかに、処刑の方法としても採用されました。腹切り(はらきり)、割腹(かっぷく)、屠腹(とふく)ともいいます。
 切腹は、平安時代末期の武士である源為朝(1139年(保延5年) - 1170年(嘉応2年))が最初に行ったとされています。
 切腹の趣旨である「己の責任を取るために自ら命を絶つ」という意図で切腹したと、明確に確認できる人物は源為朝という事になります。
 また、一般的に、鎌倉時代に武士の習慣と武士道が広まるに従って定着し、中世から近世を通じて行われたと思われています。
 近世以前の事例を見ると、一部の例外を除いて、切腹は敵に捕縛され、斬首されることを避けるための自決に限られています。
 戦に敗れたから即自決と言うわけではなく、地下に潜り(逃亡し、本当の身分を伏せて生きること)再起を図ろうとする武士も大勢いました。
 また、壮絶な切腹は畏敬の念を持たれることもあるが、切腹自体は自決のひとつに過ぎず、特に名誉と見られることもありませんでした。
 武士の処刑も全て斬首刑で、身分ある武士と言えども敵に捕縛されれば斬首刑か、監禁後の謀殺でありました。
 しかし、豊臣秀吉が天下を統一するころから徐々に切腹に対する意識が変わったと思われ、豊臣秀次、千利休らは刑罰として切腹を命じられました。
 それに対し、関ヶ原の戦い、大坂の役での敗軍武将への処刑は全て斬首刑ですが、古田織部、細川興秋など、豊臣方与力と看做された者は切腹させられています。
 その後も、改易された大名(家取り潰し)が切腹させられた例は殺傷事件を起こした浅野長矩、前田利昌など極めて例外的であることは注目に値します。
 切腹が習俗として定着した理由には、新渡戸稲造が『武士道』(Bushido: The Soul of Japan、1900年刊)の中で指摘した、「腹部には、人間の霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰」から、勇壮に腹を切ることが武士道を貫く自死方法として適切とされたとの説が、広く唱えられています。
 切腹の動機としては、主君に殉ずる「追腹」(おいばら)、職務上の責任や義理を通すための「詰腹」(つめばら)、無念のあまり行う「無念腹」、また、敗軍の将が敵方の捕虜となる恥辱を避けるためや、籠城軍の将が城兵や家族の助命と引き換えに行う事があります。
 また、合戦における下知なき行動(抜駆け)を行った者に対し、刑罰的な意味を込めて切腹を命じる場合もありました。
中でも徳川家康は抜駆け行為に対し、一族郎党全員の切腹という、特に厳しい軍律を設けていました。
 室町時代の管領細川頼之に殉死した三島外記入道以来、平時に病死した主君に対して行う殉死の風習が始まりました。 室町時代の管領細川頼之に殉死した三島外記入道以来、平時に病死した主君に対して行う殉死の風習が始まりました。
 江戸時代初期には松平忠吉や結城秀康に殉死した家臣の評判が高まり、殉死が流行しました。この流行は1663年(寛文3年)5月に殉死が厳禁されるまで続きました。
 1684年(貞享元年)に成立したとされる明良洪範では殉死を真に主君への忠義から出た「義腹」、殉死する同輩と並ぶために行う「論腹」、子孫の加増や栄達を求めて行う「商腹」(あきないばら)の三つに分類しています。
 しかし、殉死者の家族が栄達したり加増を受けたケースは皆無であり、商腹は歴史的事実ではないとされます。
 切腹の際の腹の切り方は、腹を一文字に切る「一文字腹」、一文字に切ったあとさらに縦にみぞおちから臍の下まで切り下げる「十文字腹」がよいとされました。
 もっとも、体力的にそこまでは無理なことが多く、喉を突いて絶命することが多かったとされます。後には、切腹に付き添って首を斬り落とす介錯(かいしゃく)の作法が確立しました。
 切腹は、近世からは自死のほかに、処刑(死刑)の方法としても採用されていますが、この場合、自分の不始末を自力で処理するため、主君より「死を賜る」という考えから、誉ある死とされました。
 これに対して、斬首(ざんしゅ、打ち首)や磔(はりつけ、磔刑)は武士身分がされるべきでない不名誉な刑罰とされました。 
 処刑方法としての切腹は、1873年(明治6年)に廃止され、以後、日本における死刑では絞首刑が用いられています。
 切腹を自殺の方法として用いる例は、明治時代以降も軍人や右翼の間に見られます。
 著名なものとしては、1945年(昭和20年)8月25日に、東京都内の旧・代々木練兵場(現・代々木公園)で、「大東塾十四士」が古式に則り集団割腹自殺をした事件や、1970年(昭和45年)11月25日に、作家の三島由紀夫が、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内で、演説を行ったのち割腹自殺した事件(三島事件)などがあります。
 英語圏においては、「腹切り」(harakiri)としてそのまま英語の単語になり、オックスフォード英語辞典 (OED) の項目に採用されています。
 新渡戸稲造は、1900年に刊行した著書Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)のなかで、切腹について、腹部を切ることは、そこに霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰に由来する、と考察しています。
 戦での首切りの習慣や周辺諸民族の風習と併せて考えると、切腹は南方諸民族の共有していた生命観に行き着きます。
 すなわち、命は腹や頭に宿っており、勇敢な戦士の魂を自分のものとするために斬頭したり、自己の魂を見せつけるために切腹したりするのだと考えらます。
 切腹の文化的、国民性への影響は、明治以降の国民教育で武士道が国民道徳化して以降、非常に大きいといわれます。
 現在日本国民の大多数が死刑を肯定する立場にあり、廃止を訴える国民は依然少数です。
 これは「己の名誉と贖罪の為、死を以って償う」という切腹の理念が「日本人の伝統」として固定化されたためであるという意見もあります。