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資料館A 空手の源流・四大流派編
【那覇手】
那覇手(なはて、ナーファディー)とは、首里手、泊手と並ぶ唐手(現・空手道)の三大系統の一つである。
主に琉球王国第一の商業街であり、貿易港もあった那覇(現・那覇市)に住む人々によって継承、発展した。
那覇の久米村(くにんだ)には、14世紀末、当時の明の福建省から「?(びん)人三十六姓」と呼ばれる人々が移住してきた。
 これら三十六姓の末裔は、その後の琉球王国の歴史を通じて、進貢使、通訳(通事)等の重職につくなど、中国との外交、貿易において、大いに活躍した。
那覇手は、これらの人々が逗留先の中国、あるいは琉球を訪れた中国人から中国武術を学び、これを独自に発展させたものであると考えられている。
 那覇手はその土地柄から百姓(平民)の手とも言われ、士族が担い手だった首里手と対比されることもあるが、明治以前の那覇手は湖城(こぐすく)家など、?人三十六姓の末裔と言われる久米士族を中心に発展した。
それゆえ、東恩納寛量以前の那覇手に限って言えば、百姓の手とも言えないのである。
那覇手の起源ははっきりしないが、湖城流の伝承では、流祖・湖城親方が1665年頃に、中国において中国兵法を学んだ後、帰国して一族に伝授したとされる。
 これが事実ならば、那覇手の起源は17世紀までさかのぼることになる。
他の記録でも確認できるかぎりでは、湖城流の四代目、湖城以正が中国の「イワァー(偉伯)」に師事したというのが、最も古い伝承である。
イワァーは、北京王宮の武官だったとも、冊封使つきの侍従武官だったともいわれるが、詳細は不明である。このイワァーからは首里手の佐久川寛賀や松村宗棍も学んだとされる。
湖城家からは、他にも湖城以幸(1836年 - 1907年)や湖城大禎(1838年 - 1917年)、湖城以昌(1848年 ? 1910年)といった唐手家が出ており、初期の那覇手は、実質的に「湖城家の手」と言っても過言ではない。
那覇手では、他に真栄里蘭芳(1838年 - 1904年)や新垣世璋(1840年 - 1920年)などの唐手家がよく知られており、彼らは1866年、冊封使節のための祝賀会で、セーサンやスーパーリンペーなどの型を演武したことが記録に残っており、注目される。
明治以降の那覇手の使い手としては、那覇手中興の祖とも呼ばれる東恩納寛量が有名である。
一説によれば、東恩納は新垣世璋に師事した後、中国に渡り中国武術の大家・ルールーコウに学んだとされる。
 しかし、剛柔流の型の多くは、今日東恩納の渡清以前にすでに沖縄にあったことが明らかになっており、またルールーコウという人物の実在性も今日疑問視する研究家もいる。
今日の那覇手は、湖城流と劉衛流をのぞけば、ほとんどが東恩納寛量の系統であり、彼の弟子には宮城長順(剛柔流)、許田重発(東恩流)、摩文仁賢和(糸東流)などがおり、今日の日本空手界の大きな一角を担っている。
【首里手】
首里手(しゅりて、スイディー)とは、琉球王国の手 (沖縄武術)から発展したという唐手(現・空手道)の一系統。琉球王府のあった首里に住む、首里士族によって継承・発展してきたものである。
沖縄県では、琉球王国時代には空手の流派というものは存在せず、主に空手が盛んな三地域の地名を冠して、首里手、泊手、那覇手の三大系統に大きく分類される。
 一般に、首里手は柔軟性重視、那覇手は筋骨重視が特徴と言われている。
 泊手は首里手とさほど変わらなかったらしい。
首里手の代表的な型(形)には、ナイファンチ、パッサイ(抜塞:バッサイ)、ピンアン(平安)、クーサンクー(公相君)などがある。
首里手の代表的な空手家としては、佐久川寛賀、松村宗棍、糸洲安恒、安里安恒、本部朝勇、本部朝基兄弟、屋部憲通、花城長茂、船越義珍、喜屋武朝徳、知花朝信、摩文仁賢和、遠山寛賢などがいる。
首里手の流れを汲む空手の流派としては、松濤館流、和道流、糸東流、本部流、小林流、松林流、少林寺流、少林流などがある。
【泊手】
泊手(とまりて、トマイディ)とは、沖縄の琉球王国で手 (沖縄武術)から発展したという首里手、那覇手と並ぶ、唐手(現・空手道)の三大系統の一つであり、主に琉球第二の貿易港のあった泊村(現・那覇市)に住む人々によって行われたものである。
 泊は貿易港であったため、当時、多くの中国人等、貿易に携わる外国人が出入りしていた。
 また、泊には、中国や朝鮮からの漂着人を受け入れる施設が当時はあったという。
 この施設に収容される漂着人の中には拳法に長じた人もおり、このような漂着人から地元の村人が拳法の教えを乞うて習ったのが、泊手の始まりであると言われている。
 泊手の明確な起源は、首里手、那覇手以上に判然としない。
 幕末の頃、地元の照屋親雲上規箴(1804年-1864年)が中国山東省出身の漂着人・禅南(チャンナン)より、中国武術を学んだという説を紹介する本もあるが、幕末時には、照屋は老年であり亡くなる直前なので、この話はつじつまが合わない。
 首里手は柔軟性重視、那覇手は筋骨重視が特徴と一般に言われるが、泊手の特徴は首里手と近かったと見なされている。
泊手の代表的な型(形)には、ナイファンチ(古式)、パッサイ(松茂良、親泊等)、クーサンクー(北谷屋良)、ワンカン、ワンシュウなどがある。
泊手の代表的な空手家は、照屋の他には、宗久親雲上嘉隆、松茂良興作、親泊興寛などがいる。
泊手を純粋に継承している流派は今日存在しないが、松茂良や親泊に教えを受けた本部朝基、喜屋武朝徳などの流派に、その特徴は受け継がれている。
現在、泊手が継承されている流派には、本部流、松林流、少林寺流、沖縄剛柔流・泊手空手道協会(剛泊会)、松茂良流興徳会などがある。
【空手四大流派と極真会館】
 伝統空手は、空手の伝統的な技術体系を伝承しており、剛柔流、糸東流、松濤館流、和道流の四つの流派を伝統の四大流派と呼んでいる。
  その流れを元に、多くの流派、会派に分かれていった。
 伝統派の各流派の特色は、現在では特に試合のための練習がさかんになった大学の運動部では大した差がないようです。しかし、初期には下記のような特色をがあったようです。
【剛柔流】 創始者:宮城長順(みやぎちょうじゅん)
 宮城長順は、師の東恩納寛量より中国福建省で中国拳法を修行するように命じられ、明治36年、当時16歳の若さで単身中国へ渡りました。
 中国において、宮城長順は、中国拳法の多くの達人達より血のにじむような荒稽古を受けるとともに、古い書籍などにより理論的にも研究され、帰国されてから中国拳法と手とを比較検討して、剛柔流をあみ出しました。
 剛柔流の名称は、中国古文献の武備誌から抜粋されたもので、「拳法大要八句」のなかの「法剛柔呑吐」に一句で、「法剛柔呑吐」するという意味から剛柔流を名のられました。
 極真を創始した大山倍達総裁は、1938年9月に松濤館流の船越義珍創始の元に入門、その後、剛柔流を主に学び、そのことから、極真の型の多くは、剛柔流の型を受け継いでいる。
 おもな型:「三戦(サンチン)」「砕破(サイファー)」「征遠鎮/制引戦(セイエンチン)」「四向戦(シソーチン)」「三十六手(サンセーリュウ)」「十八手(セイパイ)」「久留頓破(クルルンファー)」「十三手(セイサン)」「壱百零八手(スーパーリンペー)」「撃砕T」「撃砕U」「転掌」などがあります。
【糸東流】 創始者:摩文仁賢和(まぶにけんわ)
明治22年(1889),摩文仁 賢宝の次男として、首里当蔵村に生まれる。
幼少のころは相当虚弱だったようで、13歳の頃より糸洲安恒のもとで、首里手の修行を始めました。
 19歳の頃、東恩納寛量のもとで、那覇手の修行を始め琉球古武術である、棒術、サイ、トンファ、鎌、ヌンチャクなどを、新垣師範に学び1915年、糸洲安恒、東恩納寛量より、空手免許皆伝を允許されました。
 1929年、大阪に移り、多数の大学および警察学校にて、指導を行うようになりました。
 1934年3月、大阪に「養秀館」道場を設立し、師である糸洲安恒、東恩納寛量の頭文字を一字ずつとって、糸東流を興した。
 その後、多数の大学および警察学校にて指導を行う。
 昭和27年没、行年63。
 おもな型:「松風」「心波」「腕秀」「公相君小」などがあるが、摩文仁賢和創始は首里手を糸州安恒翁から那覇手を東恩納寛量翁から学び、両方をとりいれました。このため伝統派の型を多く伝承している。
【松濤館流】 創始者:冨名腰義珍(ふなこしぎちん)
 冨名腰義珍は流派名を正式には名乗らなかったと言われていますが、後に、道場名だった松濤館が義珍の弟子達によって松濤館流となりました。
  松濤館の建設は昭和14年頃に、富名腰創始が用いていた雅号(書号)からとって建てられた。  
 義珍はそれ以前にも別の場所で「日本唐手研究会」と名乗り空手を教えていました。
  冨名腰義珍が空手の修行を始めたのは、小学校入学の頃であったと伝えられています。
 父の親友、首里手の安里安恒に就いて稽古したといいます。
 義珍は医学の道を志したが叶えられず、教員になったといわれ、教員になってから数年後、那覇手の湖城大偵に師事したと伝えられていますが、数ヶ月で修行を諦めたといわれています。
 大正8年頃、師範学校の生徒らに課外授業として空手を教えたといわれています。
 大正10年、沖縄にて昭和天皇の前で空手を披露しました。
 大正11年、文部省主催体育展覧会にて空手を披露。このときから本土に引っ越してきました。
 同じく大正11年、嘉納治五郎の要請を受け、講道館で空手を指導します。
 大正14年、慶応義塾大学に本土で始めての空手部を作りこれを機に早稲田・法政・東大等に空手部が誕生します。
 義珍は大正10年に「唐手」の文字を「空手」に変えたと言われています。
 また型に漢字を当てはめたのも義珍と言われています。
 また、我々の師である大山倍達総裁が最初に空手を学んだ人物でもある。
【和道流】 創始者:大塚博紀(おおつかひろのり)
 幼少時代虚弱体質のため6歳から叔父 旧土浦藩武術指南役 江橋長次郎に柔術を稽古させられていました。
 明治38年「神道揚心流柔術」の門を叩きました。
 明治43年4月18歳の博紀は、上京。 
 その後頭角を表した博紀は、大正9年6月1日同流派の第三世中山辰三郎行義から免許皆伝を允許され同流第四世を嗣承した。
 大正11年、当時「沖縄唐手」が復旧し始めており、博紀は、以来唐手の研究に没頭し創意工夫の据え、沖縄唐手と古流柔術の良いところをあわせた神州和道流空手術を興し創始となりました。  最初は船越義珍の門に学び、その後は本部朝基に就いて組手とナイファンチを学び、また宮城長順とも親交を結んだという。
 また、和道流は四大流派で唯一の本土出身者の流派であり、柔術と空手を融合し、剣術もとりいれた「和風」の空手と言われている。
 おもな型:「平安弐段」 「平安五段」 「公相君」 「ナイハンチ」 「セイシャン」 「チントウ」などが、あります。
【極真会館】 創始者:大山倍達(おおやまますたつ)
 東京市に生まれ、幼少期は満州と朝鮮半島で育ち、ソウルの小学校にいる頃に、十八手の中国拳法を学び中学2年の時に初段を取得。
 16歳で日本海軍の航空兵として山梨県の航空学校に入隊、特別攻撃隊員として終戦を迎えました。拓殖大学司政科卒業、早稲田大学体育科入学。
 空手は、1938年9月に松濤館の船越義珍に入門し修行、その後松濤館流と剛柔流を主に学び、終戦後は千葉の清澄山、秩父の三峯山などで山籠りをして修行する。
 1947年に京都で開催された戦後初の空手道選手権で優勝。
 1952年、日本の武道を海外に紹介するために柔道の遠藤幸吉四段と、渡米、約1年ほど滞在して全米各地で空手のデモンストレーションなどを行う。
 その間には、プロレスラー、プロボクサーなどと試合をし全勝するしたことで、空手の強さを身をもって証明した。更に公開演武では、ビール瓶の首から上の部分を手刀で切り落とした時、周囲は驚嘆し「God Hand」と形容された。
 帰国後、47頭もの猛牛を倒し、映画『猛牛と戦う空手』として一般公開された。
 その後も、世界各国を渡り歩き、空手を広めると共に、世界の格闘技を研究し、直接打撃制空手(フルコンタクト空手)を作り出し、国際空手道連盟極真会館を興し創始となった。
 極真空手は、直接打撃制にしたことで伝統空手のように先人の残した形にとらわれずに常に実践性を考えなければならなかった。そのため、異種格闘技の技で使える、ムエタイの背足での回し蹴り、中国の意拳など隔たり無く取り入れて進化してきた。
 言わずと知れた、我々、極真空手の創始者である大山倍達総裁が、あくまで武道としての空手にこだわり、空手の歴史の中にそれまでとは全く異なる流れを作ったのが、この直接打撃のルールである。  もともと剛柔会の流れを受けていた極真空手が、近代化されてスポーツ化されてしまい、勝敗自体が明確ではない寸止め空手は、武道にあらず「空手ダンスだ!」っと近代空手団体の試合のあり方に、疑問を抱き、独自理論を唱え、顔面への手技を禁止した以外は、一切の防具を付けずに素手、素足で攻撃ができる直接打撃ルールで試合を実行したのが、極真空手創始者の大山倍達であった。
 そして、極真会館の前進であった大山道場時代には、まだ試合というものもなく、普段の稽古自体が、まさに実戦さながらに行われていたようである。
 当時の稽古は、基本的に顔面攻撃を黙認した稽古形体で、歯が折れるような怪我は日常茶飯事で、中には、前歯が骨の付け根付近で折れ、歯茎が飛び出してしまったこともあった程、実践そのものの過激な稽古が行われていたようだ。
 怪我人の多さから、近所の一般人からは気違い道場と言われることもあったようだ。
 それまでは、一般的に空手と言うと悪役的イメージが強かったが大山倍達の登場で、そのイメージが拭い去られ、爆発的な空手ブーム、そして格闘ブームを巻き起こした。 
【競技としての伝統空手】
 伝統派空手のルールが確立したのは、1957年の学生大会からでした。当時、審判1名、副審2名が見守るなかで2人の選手が相対するやり方で、現在のルールが確立していきました。
 伝統空手の試合で用いられるルールは「寸止めルール」と言われ、その名のとおり攻撃部位に対し、相手に当たる寸前で技を寸止めして技を決め、勝敗を争うもので、四大流派系の大会で主に用いられ、伝統空手の統合組織、全日本空手連盟(全空連)の正式採用ルールである。国体などでも用いられているだけに、社会体育的な認知度という意味ではもっとも定着しているルールといえるだろう。
 どっちかと言えば、格闘技というよりもスポーツとして、ダメージの概念を取り去ることにより、老若男女が無理せずに、ゲーム感覚から始められることから、現在では武道というよりもスポーツ性が強い。  また、各流派によって多少の差異はあるが、特に防具についての違いが目立つ。
 同じ寸止めルールでも、拳サポーターやメンホーなどの使用を義務付けるところもあれば、素面・素手で行なうところもあるため、同じルールであるにもかかわらず、見た目の印象は防具ありと防具無しとでかなり変わってくる。
 このルールの特徴は、ダメージ性ではなく、当てたもの勝ち(実際には触らないが)なので、踏み込みと技のスピードの速さ、引き手の速さを非常に要求される。
 しかし、空手の基本的な技を試合に使用しなければならず、雑な技ではポイントを取ることはできないため、基本技術の正確さも求められる。ただ手足が素早いだけでは勝ち抜くことはできない。
また、寸止めだからこそ実現できるのが、肘や手刀、投げから決め、などである。
 これらの技は、他のルールでは判定基準の難しさ、危険度の高さゆえに禁じられているが、寸止めルールにおいては、初めから当てないルールであるがゆえに使用することが可能となった。  また、伝統故に、使用できない技も多数あり、下段蹴り、胴回し回転蹴りなどといった技は試合では使えない。
 総じて「伝統空手」とは、伝統派の名が示すように空手の伝統的な技術体系の伝承、保存を大事にするルールであるといえる。
【競技としての直接打撃制ルール】
  フルコンタクト空手(直接打撃)は、その名が示すとおり、相手に実際の手技、足技を当てる空手のこと。 
 明治以来、空手の近代化が進む中で、それまで守られてきた伝統空手の寸止めルールに一代旋風を巻き起こしたのが、直接打撃制ルールの登場である。
 今でこそ、このルールが他の多くの流派にも普及しているが、当時としてはかなり過激なルールで、まさに、伝統空手界にとっては青天の霹靂と言うべき大事件であった。
 今でこそ馴染み深いルールですが、当初は、伝統派からは、邪道視されながらも、その信念を貫き、素面・素手・素足で行なわれた当初の試合は、手技による顔面攻撃、金的蹴りを禁じた以外の攻撃を全て認め、瞬間的な掴み、投げも許されたルール形式で行われた。
 初公開された当時は究極の格闘技であった。 
 なんと言っても、このルールの魅力は、手技による顔面攻撃を認めなかったがゆえに、多彩で華麗な蹴り技が発達したことである。
 それまでの寸止めルールの場合は、突きによるポイントの奪い合いが主だった試合の中で、相手に対し実際に技を当てるため、勝敗もはっきりして、派手な組手が展開されることとなった。  そして、直接打撃によるルールのため、時として派手なKOを生むこともあり、爆発的な人気を呼ぶことになる。
 しかし、そのように実戦性を追求しながら、武道性を失わない試合ができないかと模索していた大山は、1969年9月20日、ついに伝統空手界、そして武道界を震撼させる極真、第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会を代々木の東京都体育館で開催した。
 この試合はオープントーナメントと名を打つことで、伝統空手は勿論のこと、プロレス、柔道、ムエタイなど全ての受け入れを許可した形で行われた。
 まさに空手そして格闘技ブームの幕開けである。
 開始当初は邪道視されていたルールだが、現在では極真を中心に多くの流派がこのルールで大会を行い、空手の一ジャンルとして定着している。
 流派によっては、掴みや投げ技を認めたり、顔面攻撃を寸止めで認めたりするところもあり、様々なバリエーションのルールが生まれている。
 また、フルコンタクト空手の裾野が広かったことに伴って武道性を重んじながらも、スポーツルールとしての熟成度も高まっているため、全国大会レベルになると、プロスポーツ選手並みにハードなトレーニングなどの専門的な稽古に励める環境にない選手は、上を目指すことができない厳しさがあることも確かだ。
 しかし、その一方、近年の空手ブームで、少年、女子、壮年部などの大会も全国レベルで多く開催されるようになり、過激なだけのイメージだけが強調されていたフルコンタクトルールにも、時代の流れと共にが訪れていて老若男女にも対応できるルールも確立されてきている。
 もともと一つであった空手自体がそうであったように、極真会館創設から40年近く経った現在、多くの弟子達が増えることで、各々の考えをもとに、自流を立ち上げ分散化してゆく悲しい現実がある。
 現在、フルコンタクト空手と言われる空手だけでも把握しきれない程の流派が存在するようになった。ただ、事実、創始の大山倍達は、近年のフルコンタクト空手及び格闘技ブームの元祖である。
 今、人気の格闘技界全てに於いて、それぞれに形は変われど、大山倍達のエッセンスは、弟子達によって脈々と受け継がれていることは間違えのない事実である。
 大山倍達なくしては、今の格闘技ブームはなかったと言えるほど、格闘技界を代表する存在であり、その功績は偉大である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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