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資料館A 勝負強いのは誰だ?
<勝負強いのは誰だ?>
・ 気の強い奴
・ 気の弱い奴
果たして、極真空手の選手として向いているのはどっちだ?
ここで言う、気の強いタイプの性格を持っている選手とは 『プレッシャーのかかる勝負、どんどん来い。
大勝負ほど燃えあがる』ような性格をしている人だ。
気の弱いタイプの性格を持っている選手とは『プレッシャーのかかる厳しい勝負ほど結果を出せない。
「きっとまた、ダメなんじゃないか」とネガティブに考えてしまう』ような性格をしている人だ。
プレッシャーのかかる僅差の勝負の場合、遊技スポーツのレベルなら、大方、『気の強いタイプ』が勝利するし、『気の強い性格』は有利な事だ。
しかし、競技スポーツのレベルでは、どちらのタイプの人間が勝利するか、どちらのタイプの性格が有利なのかは、分からない。
なぜなら、高いレベルまで磨き上げられてきた選手は、『自分をよく知っている』からだ。
高いレベルの勝負では、『持って生まれてきた素質』よりも『生まれた後に磨いてきた素質』の方が勝る。
命を懸けた本物の戦争から得た教訓である孫子の兵法書にも『敵を知り、己を知れば、百戦危うからず』と書かれている。
『力の強い奴が勝つ』とか、『強い技を持っているほうが勝つ』とか、『気合の入っている方が勝つ』ではない。
もちろん、力や武力や気合といった強さも勝敗に影響はするが、それらは二次的な要素であって、勝敗の一次的要素ではない。
己を良く知らずに戦えば、弱いはずの敵にガツンとやられるのは、どの世界にもよくある話だ。
力や武力が二次的要素であるから、力や武力では劣っている『(表面的)弱者』に、力の強い奴が負ける事があるのだ。
一次的要素が互角の時に初めて、結果が二次的要素に左右される。
勝敗の結果を決める一次要素とは『己を知る』事なのだ。
『敵を知ろう』とする事は、遊技スポーツレベルでもある事だが、『己を知る』事は、競技レベルが上がってきて必然的に必要となって身に付くものだ。
『自分を知る』事は、勝負の世界の根底にある絶対条件なのだ。
ただ、難しい事に、一次的要素から先に鍛える事はまず無理で、二次的要素類を鍛え上げた後にしか、『一次要素を鍛える事が出来るレベル(ステージ)』に到達できない。
表面的な二次的要素を高めていかなければ、根底にある一次的要素が見えないからだ。
例えば、富士山頂からの風景は、下から登ってきて9合目までを制覇した後にしか見れないのと同じだ。
仮に、途中をハショって頂上の風景を見たとしても、苦労して登ってきた人間の目に見える風景と、おいしい所だけをかい摘もうとした人間の目に見える風景では、同じ風景でもまったく違って見えるのと同じだ。
『(手に入った)その人の視点』が、見え方(見方)までをも左右してしまうのだ。
『小さな大会』や『楽勝試合』では実力を発揮できるのに、『重要な試合』や『僅差の試合』になればなるほど、力を発揮できない人は、精神的に弱いタイプの性格に『生まれ』、そして『育っていた』からだ。
重要な試合の前には『また、俺はダメなんじゃないか』という不安が高まり、その不安に影響された練習や行動をしている。
『勝てる練習』といった『プラスの戦術』を使うから勝利に近づくのに『不安を払拭するための練習』といった『ネガティブな戦術』を使うのだから、負けて当然だ。
『結果的に』ではあるが、『負けるための練習を積み重ねていた』と言っても、過言ではない。
しかし『自分は精神的に弱いタイプの人間だ』という事に、まっすぐ目を向ける事もなく『自分は精神的に弱い。
だから勝てない。
選手には根本的に向いていない』と、自分の弱さから逃げる言い訳を心の奥底に持っている。
『自分は精神的に弱い。
だから勝てない。
選手には根本的に向いていない』なんて、本当であろうか?
勝負弱い選手のほとんどは、これに近い思考をしているはずだが、本当にその分析は正しいか?
『性格や持って生まれたものが悪いから弱いのではなく、その短絡的で表面しか捉えていない浅い思考回路が、勝てない原因』である事にも気付いた上で、敗戦の原因を分析できているか?
『目を瞑って試合をすれば僅差の試合も何もない。
自分だけの試合が出来る』という事を。
『自分が精神的に弱く、相手の選手のペースにハマって、自分の試合が出来ない』にも関わらず、試合中に相手ばかり見ている。
他のライバルが後ろから迫ってくれば、『また、やられる』と思うくせに、他の選手と並んでいれば『並んだ方がいいかな?
先行した方がいいかな?
押さえた方がいいかな?
』と迷うくせに、他の選手が先行していれば、『置いていかれている』と焦るくせに、周りの選手の試合展開を気にしている。
『他の選手の試合展開を知ったところで、精神的に弱い自分にとっては、不都合以外なにもない』にも関わらず、その程度の分析も出来ずに、気にしている。
『負けるための戦術』を自分で自ら採用して負けているくせに、『自分は精神的に弱いので、選手として向いていない』という、薄分析をした挙句に、引退という結果まで出してしまう。
『自分は精神的に弱いタイプの人間だ』という事実に目を向けられなかったから、こんな低い視点しか持てずレベルの低い結果を導いてしまう。
ただ『戦う』選手として、『弱い』という事を認める事が出来なかっただけ。
『弱さに目を向ける強さ』を知らなかった(知ろうともしなかった)から、『弱さに目を向ける勇気』が持てない。
安っぽいメンタル本の指南に従って、『自分は強い。
強い人間だ』なんて念仏をいくら唱えても、勝利は転がってこない。
『勝てる戦術』を採用するから勝利が転がってくるのであって、事実(現実)すらも直視せずにいくら気合を入れても、勝てないのは当たり前だ。
『自分は精神的に弱いタイプの人間だ』という事実を前提にして戦略を考えれば『目を瞑って試合をする。
相手を見ない。
自分だけの試合をする』程度の戦略はすぐに思いつく。
念仏など唱えなくても、勝利は転がってくる。
大会中に目を瞑って戦うようになれば、勝つ事もあるし、負ける事もある。
かなりの接戦を制して勝負強い試合をしたように見えても、本人は周りを見ていないから、自分だけの試合をしただけで、プレッシャーのかかる接戦をした気分はない。
負け続けていたのだから、勝ったり負けたりするようになったのは、弱いタイプの選手としては、上出来だと思ってしまう。
<心技体>
こういった話は、競技スポーツ界ではずっと昔から心技体の一言で表されているが、『心』『技』『体』の3文字は、同列ではない。
この3文字を横に同列に並べるからその真意が伝わらないが、ピラミッド図にすると良く分かる。
『体』を鍛えると、 次に『技』を磨く ステージに立てる。
『体』を鍛え、 『技』を磨き続けると、『心』を磨く ステージに立てる。
という事を『心技体』は表している。
『心技体』の言葉が、本当にそういった事を意味しているのかは知らないが、経験的にいって間違いない。
『技心体』『体技心』でも発音的におかしくないのに、『心技体』と言っているのはこの関係を表しているはずだ。
『己を知れば、百戦危うからず』という兵法とも、フラクタル的に一致している。
遊技スポーツレベルでは、『体(体力)の差』が勝ち負けに大きく影響してくる。
遊技ごときで、人生を賭けたような勝負をする奴はいないからだ。
空手も少しやり込んでくると、『テクニック(技)の差』が出てきて、体の大きな奴を倒す小さな選手が出てくる。
持っている能力の限界に近い所で勝負するようなレベルになってくると、体も大きく、技も一流の選手が激突するようになる。
その時の差は『心』だ。
体や技は、人間おおよそ同じだが、心は科学のメスが入らないほど、広くて深いもので『磨き方の違いによる差』が人によって大きく出てきて、そこを問われるのだ。
『心技体』をアスリート側の視点から見れば『重要な順に3文字が並べられている』し遊技レベル側の視点から見れば『難しい順に3文字が並べられている』 心は山頂に値するので、心から先に鍛えて、技を磨き、体を鍛える事はできない。
現実のトレーニングをイメージしても、直感的に分かる事だろう。
心を磨くステージでは、同時に体と技も磨き続けていなければならない『より高度なステージ』だ。
『心』『技』『体』における『心』には、とても重い比重があるのだが、この3つは三位一体でなくてはならず、それが難しい。
『体』を鍛え、『技』を磨いて積み上げてきたのに、『心』を磨いている最中に、この3つのバランスを取り損ねると、それまで積み上げてきたものが一気に崩れてしまう。
つまり、競技レベルの高い選手ほど、絶好調から、ちょっとした事で絶不調に陥る危険をはらんでいて、危険な綱渡りにチャレンジする事を要求されるわけだ。
この高度なステージを抜けてきた『心技体のバランスが取れた選手』が勝つ事は、極当たり前の事で、そうではない選手が勝つ方がよっぽど不思議な事なのだ。
だから、『心は、勝敗の一次要素』なのだ。
技や体は二次的要素なのだ。
話を元に戻して、 ・ 気の強い奴 ・ 気の弱い奴 はたして、どちらがトップレベルの争いをする選手として有利だろうか?
『元々生まれ持って勝負強い選手が、さらに磨きをかける』という現実と 『元々勝負弱い選手が負け続け、どうしようかと悩んだ結果、磨きをかけてきた』 という現実では、どちらが"よりありえそう"な話か?
人は、『GOODな状況を何とかしようと悪戦苦闘する』だろうか?
それとも、人は、『BADな状況を何とかしようと悪戦苦闘する』だろうか?
『体格に恵まれていたから、技を磨いて勝とうとする』だろうか?
それとも、『体格に恵まれていなかったから、技を磨いて勝とうとする』だろうか?
『体も技も優れていて勝利し、良い気分になっている選手が、心を磨こうという境地に達する』だろうか?
それよりも、『体も技も磨いたけど、それでも負けるから、悪戦苦闘して心も磨かれた』方が、"よりありえる"話ではないだろうか?
人は、悪い状況だからこそ、なんとかしようとするのではないだろうか?
これらを踏まえたうえで、『生まれ持ったものがBADだから、BADな結果になっている』と言い切れるだろうか?
持って生まれたものさえ有利なら、それが競技者として有利な事と本当にいえるだろうか?
『有利な素質を持って生まれて来てしまったがために、精進する必要性を感じるチャンスを得られず、勝負のステージに立つ前に、さっさと退場してしまって、せっかくの素質を腐らせた』事が、そんなにあり得ない話だろうか?
有利な素質を持った選手よりも、そうではない選手の方が『精進しようと思う機会に恵まれている環境にいる』と言えなくないだろうか?
もちろん、有利な素質を持って生まれた天才が、努力する事もある。
その場合、『努力した天才』は、ヒーローになる。
記録だけでなく、記憶に残るヒーローになる。
確かに、そんなヒーローには、凡人はかなわない。
ただ、『だから、どう』という事はない。
『勝てないなら、勝負のステージに上がる努力をする必要もない』なんて事はない。
結果では勝てなくとも、ヒーローと同じ土俵に上がって勝負ができれば、『その世界』を共有する事が出来る。
勝ち負けの結果は、『感動』における二次的要素であって、一次要素ではない。
二次的要素である『結果』の前に、一次要素が満たされていなければ、人は心からの感動を覚える事はない。
他人の目からは見えない『戦った者たちだけの世界』を共有できる事は、勝敗の結果とはまったく違う次元の絶品の味がする。
絶品の飯を、報告する人すらもなく一人で食べるよりも、『うまいものを食った』という感覚世界を共有できる人がいる方が感動が大きいのと同様に、勝負に勝ったとしても、勝負の世界を共有できなくては、感動もない。
他人がいくら「いいなぁ」とうらやましがっても、本人に感動が生まれてこなければ、絶品料理を口にしても、何も得るものはないどころか、自分と外とのギャップから生まれる『虚無感』に、さいなまれるだけだ。
競技スポーツを通して『戦った世界を共有できるようなレベルで、心が磨けたか』が、選手本人にとって重要な事なのだ。

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